8月9日は、長崎に原爆が落とされた日だった。
突然、教室の壁が崩れて、わたしは建物の下敷きになった。
なにが起こったのか分からない。背中が痛い。
何かが覆いかぶさって起き上がれない。
暗くて何も見えない。
たくさんの人のうめき声が聞こえる。
血だらけの腕が伸びてきて、わたしをずるずると引っ張りあげた。
顔も腕も血だらけで、服もぼろぼろになった姿の先生だった。
先生が建物の下敷きになったわたしを助けてくださったのだ。
先生は、瓦礫の下の空洞に向かって叫んでいた。
「まだ、下におるかあ。下におるもんは、自力でなんとか
出てこいよう。」
外に出てみれば、これが人かと思うほど、前も後ろも
わからないぐらいのひどい火傷で焼けただれた人々が、
ゆっくりと、ゆっくりと歩いている。
服など焼けてしまって、みんな裸同然だ。
胸がえぐれ、心臓がぴくぴく動くのが見える人、
顔の半分が溶けたように焼けている人。裸同然の姿で、
焼け焦げた体から血を流し、赤むけになった両腕を
前に突き出して、よろよろと歩くさまは、まるで幽霊だ。
ぼろぼろの布が指先や体のあちこちから
垂れ下がっている。よく見れば、それは焼けてはがれた
皮膚が体を離れて、指の先にボロ雑巾のようになって
ぶら下がっている姿であった。
地獄だと思った。
昔どこかで見た地獄絵図そのものだ。
わたしは気を失ってしまった。
気が付いた時は、夜になっていた。
わたしは広い建物の中に大勢の人々といっしょに寝かされていた。
どの人も重症を負って低くうめいている。背中が痛い。
息苦しい。うめき声で満ちた暗闇の中で、誰かが叫んだ。
「だれか、産婆さんはおらんか。ここの妊婦さん、
赤ちゃんが産まれそうや。」
わたしのとなりの人が、むっくりと起き上がった。
「わたし、産婆です。わたしが手伝います。」
その人も全身火傷を負って、裸同然の姿だった。
夜が明けて、赤ちゃんは産まれたが産婆さんは死んでいた。
産ませてやろう、産ませてやろうとして、
全身火傷の姿のままで。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
8月9日、たまたまテレビを観る時間がありました。
そして、今は死んでしまった被爆者の証言や、
背中が痛くて、体力の限界で引退した、「原爆の語り部」の、
最後の証言を観ました。
観ていない人は多いでしょう。みんな仕事でテレビは観ていない
はずだから。だから、語り部の代わりに、ここに
記録しておきました。2,3人の証言がごっちゃになっていると
思うけど、みんな同じ有様だったようです。
焼けてただれて、裸で血みどろで、赤い杭( く い )みたいに
なっていたようです。みんな、埋まった人を助けられず、
「助けて。」と言う声を無視して、そのままにして
自分だけよろよろと避難所に移ったそうです。自分も傷付いて
いたので、仕方がなかったそうです。
4歳の子に「お母ちゃんを助けて。」と頼まれても、助けて
やれなかった。その時の4歳の子の絶望したひとみの色が
忘れられないんだそうです。
だからみんな、こころ苦しさを抱えて生きているんだそうです。
そんな被爆者達も年をとって、語り部たちの姿は少しずつ
消えていきました。次の世代のわたしたちが、この日の事を
伝えていく番です。長崎を原爆が落とされた最後の街にしたいと、
被爆したお年寄りたちは言っておられました。