twitterで宮崎駿氏の発言をツイートしている@miyasan_bot から、RTしてみました。
生産者であることと消費者であることは同時でなくてはいけないのに、
私たちの社会はほとんどが消費者だけで占められてしまった。
生産者も消費者の気分でいるというのが大きな問題だと思います。
経済の行きづまりで不安だ不安だというけど、そんなのは不安でも何でもない。
そんなことはずい分前からわかっていたことでしょう。
異様なほど楽天的だったんですよ。
経済的自立は必ずしも精神的自立を意味しません。
貧困は、物質的貧しさよりも、心についてより多く語られるべきです。
TVに株の値段が出るのはおかしいことだと思っています。
いつも経済のことを気にしているのは、滑稽なことですよね。
そんなことよりも、今幾らポケットに入っているか。今日の晩ご飯に何を食べるか。
それが自分の経済のはずです。
電気を使う暮らしとか、病気を克服しようとか、貧乏を無くそうとか、
不条理な死から解放されたいとか、そういうありとあらやる人間のやって来たこと、
それがいいことだと思ってやって来たことが、
実は自然というものを人間のために利用するということに尽きるわけですね。
火を原子炉の中に閉じこめたり、見えないところで使うようになった結果、
火も抽象的なものになりかかっているんですね。
蛇口をひねればお湯は出てくるものだとか。
ぼくらは、日本人が器用だなんていうのは幻想にすぎないという結論を出しました。
いまの日本人は、みんなものすごく愚図になってます。
「いい学校に入れなきゃいけないから塾に通わせなきゃ」という人の話を聞くと、
まだそんなことやってるんですかって、化石を見るような思いがするだけで、
もうぼくは、そういうのと付き合いたくないんですよ。
ヨーロッパからはいってくるファンタジーがありますが、光と闇が闘って、いつも光が善なのです。
悪い闇がのさばってくるのを、光の側の人間がそれを退治する。
それと同じ考えが日本をむしばんでいると思います。
森と闇が強い時代には、光は光明そのものだったのでしょう。
でも、人間のほうが強くなって光ばかりになると、闇もたいせつなんだと気がつくわけです。
人生そうたいしたことは起こらないって決めて生きれば、ずいぶん気がラクですよ。
それでも生きるに値することってあるんです。ワクワクすることも出てくる。
そんなに先のことが見えないと生きられないのか問いたいですね。
これまでだって、先なんか見えた試しがない。
未来は常に不安ですよ。保障された未来なんて、あるはずがない。
年金が保障されているなんて思っているとしたら、国家を信用しすぎです。
通貨は紙切れに過ぎません。国家なんて、そんなものです。
信用しすぎるのは間違っています。
一番厄介なのは、みんながボランティアで、自分が善意でしていると思い込んで、
自分が正しいと思っているのが一番よくないんですよ。
それで、こいつとこいつが仲悪くなると、組織が壊れちゃうんです。
私たちの島は、繰りかえし繰りかえし、地震と火山と台風と津波に襲われてきた島です。
それでも、この島は自然の豊かな恵まれた島だと思います。
多くの困難や苦しみはあっても、もう一度、人が住む、
もっとより美しい島にしていく努力をする甲斐のある土地だとぼくは思っています。
ぼくは地球の地殻変動や自然災害というのは、
人間の営みとまったく無関係じゃないとどこかで思っているんですね。
人間社会の行きづまりなんかとちゃんとつながっているんじゃないかって気がしてしかたがない。
垂直線と水平線だけで作った街を全部やめて、
地面と人間が渾然一体となったようなわけのわからない街を作って、
さあ、そこからなにが始まるのかということを発信したほうがいい。
僕は自分を回復しようとして、山小屋にこもるわけですけど、
そういう場所で、シンプルな生活をしていると、
ある瞬間を境に、自然や風景がじかに頭の中に飛び込んでくるようになるんですね。
みんながそれぞれ隠れ家を持てばいいのにって思いますね。
都市の中で回復しようったって、もう無理なんだから。
ディープエコロジストになって、自然の中に入って幸せになれるっていったって、
幸せにならないですよ。
縄文時代の人が、みんな幸せだったかというと、違うでしょ。
お釈迦様が生きた時代でも、キリストが生きた時代でも、
なぜ人間はかくも苦しまなければいけないんだって世界宗教が生まれたんですから。
自然を大切にするというのは正しいんですが、
自然が回復すれば人間は幸せになるというのはうそですね。
鎌倉時代には手つかずの自然が豊かにありましたが、もちろん人間の悲劇、喜劇は無数にあった。
では自分の生活の基盤として何が一番大切なんだろうと考えると、
結局は礼儀作法ではないかと思います。

生産者であることと消費者であることは同時でなくてはいけないのに、
私たちの社会はほとんどが消費者だけで占められてしまった。
生産者も消費者の気分でいるというのが大きな問題だと思います。
経済の行きづまりで不安だ不安だというけど、そんなのは不安でも何でもない。
そんなことはずい分前からわかっていたことでしょう。
異様なほど楽天的だったんですよ。
経済的自立は必ずしも精神的自立を意味しません。
貧困は、物質的貧しさよりも、心についてより多く語られるべきです。
TVに株の値段が出るのはおかしいことだと思っています。
いつも経済のことを気にしているのは、滑稽なことですよね。
そんなことよりも、今幾らポケットに入っているか。今日の晩ご飯に何を食べるか。
それが自分の経済のはずです。
電気を使う暮らしとか、病気を克服しようとか、貧乏を無くそうとか、
不条理な死から解放されたいとか、そういうありとあらやる人間のやって来たこと、
それがいいことだと思ってやって来たことが、
実は自然というものを人間のために利用するということに尽きるわけですね。
火を原子炉の中に閉じこめたり、見えないところで使うようになった結果、
火も抽象的なものになりかかっているんですね。
蛇口をひねればお湯は出てくるものだとか。
ぼくらは、日本人が器用だなんていうのは幻想にすぎないという結論を出しました。
いまの日本人は、みんなものすごく愚図になってます。
「いい学校に入れなきゃいけないから塾に通わせなきゃ」という人の話を聞くと、
まだそんなことやってるんですかって、化石を見るような思いがするだけで、
もうぼくは、そういうのと付き合いたくないんですよ。
ヨーロッパからはいってくるファンタジーがありますが、光と闇が闘って、いつも光が善なのです。
悪い闇がのさばってくるのを、光の側の人間がそれを退治する。
それと同じ考えが日本をむしばんでいると思います。
森と闇が強い時代には、光は光明そのものだったのでしょう。
でも、人間のほうが強くなって光ばかりになると、闇もたいせつなんだと気がつくわけです。
人生そうたいしたことは起こらないって決めて生きれば、ずいぶん気がラクですよ。
それでも生きるに値することってあるんです。ワクワクすることも出てくる。
そんなに先のことが見えないと生きられないのか問いたいですね。
これまでだって、先なんか見えた試しがない。
未来は常に不安ですよ。保障された未来なんて、あるはずがない。
年金が保障されているなんて思っているとしたら、国家を信用しすぎです。
通貨は紙切れに過ぎません。国家なんて、そんなものです。
信用しすぎるのは間違っています。
一番厄介なのは、みんながボランティアで、自分が善意でしていると思い込んで、
自分が正しいと思っているのが一番よくないんですよ。
それで、こいつとこいつが仲悪くなると、組織が壊れちゃうんです。
私たちの島は、繰りかえし繰りかえし、地震と火山と台風と津波に襲われてきた島です。
それでも、この島は自然の豊かな恵まれた島だと思います。
多くの困難や苦しみはあっても、もう一度、人が住む、
もっとより美しい島にしていく努力をする甲斐のある土地だとぼくは思っています。
ぼくは地球の地殻変動や自然災害というのは、
人間の営みとまったく無関係じゃないとどこかで思っているんですね。
人間社会の行きづまりなんかとちゃんとつながっているんじゃないかって気がしてしかたがない。
垂直線と水平線だけで作った街を全部やめて、
地面と人間が渾然一体となったようなわけのわからない街を作って、
さあ、そこからなにが始まるのかということを発信したほうがいい。
僕は自分を回復しようとして、山小屋にこもるわけですけど、
そういう場所で、シンプルな生活をしていると、
ある瞬間を境に、自然や風景がじかに頭の中に飛び込んでくるようになるんですね。
みんながそれぞれ隠れ家を持てばいいのにって思いますね。
都市の中で回復しようったって、もう無理なんだから。
ディープエコロジストになって、自然の中に入って幸せになれるっていったって、
幸せにならないですよ。
縄文時代の人が、みんな幸せだったかというと、違うでしょ。
お釈迦様が生きた時代でも、キリストが生きた時代でも、
なぜ人間はかくも苦しまなければいけないんだって世界宗教が生まれたんですから。
自然を大切にするというのは正しいんですが、
自然が回復すれば人間は幸せになるというのはうそですね。
鎌倉時代には手つかずの自然が豊かにありましたが、もちろん人間の悲劇、喜劇は無数にあった。
では自分の生活の基盤として何が一番大切なんだろうと考えると、
結局は礼儀作法ではないかと思います。
