原発事故報道を見たくない人激増!
心の防衛メカニズム「解離」が指導者層にまで浸透してる現状「きわめて危険」
http://t.co/G5YWL9o
以下引用。
「過覚醒」に続き、「解離」が社会に蔓延
前回まで、東日本大震災発生時に日本社会全体に見られた異常心理のひとつ、「過覚醒状態」について書いてきた。
今回は、大震災の影響で社会に蔓延している「もうひとつの心理」について、解説しよう。
それは「解離」というものだ。
たとえば震災以降、診察室にやって来る患者さんの中に、余震の不安や原発事故の恐怖について自ら語る人が少なくない。以下のような感じだ。
「原発事故、本当に恐ろしいですね。ネットを見たり勉強会に参加したりして、自分なりに一生懸命、情報を集めて対処しています。政府の発表は信じられなくて……」
こういう場合は「そうですよね、心配になりますよね」などと、まずは同意する。
しかし彼らの話がこれで終わることはなく、おおむね続きがあることが普通だ。
「それが……夫はまるで違うんです。最初の数日はいっしょに原発事故の報道も見てあれこれ語っていたはずなのに、あるときからまったく関心を示さなくなったんですよ。それどころか、私が“雨には放射性物質が含まれている危険性があるから、濡れないようにしてね”と朝、傘を渡そうとすると、“いらない!”と険しい顔で手を払いのけたんです」
こうしてまだまだ続いていく。
家庭・職場で「すれ違い」が多発
「元々とても優しくて、そんなことをする人じゃないのに。それに、最近は“仕事の鬼”みたいになって、朝早くから夜遅くまで会社にいます。“ウチの会社も業界トップまであと一歩なんだ”なんてやたらと張り切って、津波も原発もなにごともなかったように明るいんですよ。
そんな姿を見ていると、なんだか夫の人間性を疑ってしまって。被災地でも原発周辺でも、まだまだ日常に戻れない人もたくさんいるし、いちばん身近な私がこんなに深刻な気分なのに、いったいどう考えているんでしょう?」
もちろん、この例が「とある家庭固有の課題である」可能性はある。ものすごく引いて客観的に見れば、家族のために精一杯働いているご主人に対し、理不尽な不満を挙げているようにも見える。
ただ、実際に診察室を訪れる患者の方々を見ていると、それだけとは言い切れない普遍性があるのもたしかだ。
細かな内容は別にして、こういう「すれ違い」問題は、どこの家庭、職場でも多かれ少なかれ起きているのではないだろうか。
実際、「職場で原発にセンシティブな人とそうでない人とがはっきり二分されてしまい、お互いグループを作って接触を避けている感じ」と教えてくれた知人もいた。
「原発事故を見たくない」が招く、「解離」心理
原発事故にあまり反応しない、あるいは関心を示さない人たちには、いくつかのタイプがあるはずだ。
まず、「たとえいくらかのリスクはあっても、日本経済のために原発は不可欠」という信念を持って、原発を容認あるいは推進しているタイプ。
次に、原発について容認派か否定派かは置いておいて、理性的、ないし科学的に判断して、原発事故の報道に必要以上に過剰に反応しないタイプ。
最後に、「考えたくない」「考えても仕方ない」という消極タイプだ。
元々は思いやりもあり優しいほう、という先の女性の夫は、消極タイプなのかもしれない。
消極タイプがさらに進むと、この災害や事故自体を「なかったことにしたい」とか「現実のできごとと思わないことにしたい」とか、自分の心と今の状況との間にシールドを設けてしまう人が出てくる。
これが、「解離」と呼ばれる心の防衛メカニズムだ。
虐待児童は、「解離」で現実から逃避する
「解離」は、児童虐待を受けた子どもでしばしば認められることがある。
子どもが、虐待を受けたことをまるごと覚えていなかったり、「あれは夢なの」「映画で見たことだ」と言ったりすることがある。事実をそのまま認めてしまうと心が潰れてしまうので、それを恐れ、心が「解離」を起こしている結果なのだ。
虐待児童と同じ心理状況に、震災以来の日本人が陥ってしまっているのではないか。
特に、今後とも収束まで長期間にわたり神経質な対応が必要な原発事故は、日本人の心に大きな影を落としている。「ナイーブな人たち」がその影響を受けてしまうのは、十分あり得る話だ。
原発事故の報道は、実際、嫌でも毎日目に入ってきてしまう。それにもかかわらず、「なかったこと」「自分にはまったくかかわりがないこと」のように距離を置き、仕事とかギャンブルなど他の問題に没頭して過ごす、というのも、まさにこの「解離」のメカニズムが起きた結果と思われる。
政治の不全にも、指導者層の「解離」が影響しているのか
もしかすると、脱・原発の動きが加速するヨーロッパを横目で見ながらその動きがなかなか社会化していかない日本は、国全体で「解離」を起こしているのかもしれない。
そういえば、毎日、東電の「ふくいちライブカメラ」で福島第一原発のリアルタイム映像を一日中ウォッチしながら、「どうしてもこれが地続きの場所で起きているとは思えない。廃墟SFか何かのワンシーンにしか見えない」と診察室で語った、ひきこもり気味の青年がいた。
わずか4か月前には、菅総理も枝野官房長官も自分たちが原発事故について議論したり会見するとは、想像もしていなかっただろう。もしかするといまだに、ふとした瞬間に「え、これって現実? 夢か何かじゃないの?」とリアリティーを見失うことがあるのではないだろうか。
これらも、「解離」のひとつである。
もう少し敷衍すると、こんな時期に政局に明け暮れる国会自体、いちばん強い「解離」を起こしていると考えることも可能だ。
日本社会全体で起きている「解離」がどのように表出しているか、次回も考えてみたい。
心の防衛メカニズム「解離」が指導者層にまで浸透してる現状「きわめて危険」
http://t.co/G5YWL9o
以下引用。
「過覚醒」に続き、「解離」が社会に蔓延
前回まで、東日本大震災発生時に日本社会全体に見られた異常心理のひとつ、「過覚醒状態」について書いてきた。
今回は、大震災の影響で社会に蔓延している「もうひとつの心理」について、解説しよう。
それは「解離」というものだ。
たとえば震災以降、診察室にやって来る患者さんの中に、余震の不安や原発事故の恐怖について自ら語る人が少なくない。以下のような感じだ。
「原発事故、本当に恐ろしいですね。ネットを見たり勉強会に参加したりして、自分なりに一生懸命、情報を集めて対処しています。政府の発表は信じられなくて……」
こういう場合は「そうですよね、心配になりますよね」などと、まずは同意する。
しかし彼らの話がこれで終わることはなく、おおむね続きがあることが普通だ。
「それが……夫はまるで違うんです。最初の数日はいっしょに原発事故の報道も見てあれこれ語っていたはずなのに、あるときからまったく関心を示さなくなったんですよ。それどころか、私が“雨には放射性物質が含まれている危険性があるから、濡れないようにしてね”と朝、傘を渡そうとすると、“いらない!”と険しい顔で手を払いのけたんです」
こうしてまだまだ続いていく。
家庭・職場で「すれ違い」が多発
「元々とても優しくて、そんなことをする人じゃないのに。それに、最近は“仕事の鬼”みたいになって、朝早くから夜遅くまで会社にいます。“ウチの会社も業界トップまであと一歩なんだ”なんてやたらと張り切って、津波も原発もなにごともなかったように明るいんですよ。
そんな姿を見ていると、なんだか夫の人間性を疑ってしまって。被災地でも原発周辺でも、まだまだ日常に戻れない人もたくさんいるし、いちばん身近な私がこんなに深刻な気分なのに、いったいどう考えているんでしょう?」
もちろん、この例が「とある家庭固有の課題である」可能性はある。ものすごく引いて客観的に見れば、家族のために精一杯働いているご主人に対し、理不尽な不満を挙げているようにも見える。
ただ、実際に診察室を訪れる患者の方々を見ていると、それだけとは言い切れない普遍性があるのもたしかだ。
細かな内容は別にして、こういう「すれ違い」問題は、どこの家庭、職場でも多かれ少なかれ起きているのではないだろうか。
実際、「職場で原発にセンシティブな人とそうでない人とがはっきり二分されてしまい、お互いグループを作って接触を避けている感じ」と教えてくれた知人もいた。
「原発事故を見たくない」が招く、「解離」心理
原発事故にあまり反応しない、あるいは関心を示さない人たちには、いくつかのタイプがあるはずだ。
まず、「たとえいくらかのリスクはあっても、日本経済のために原発は不可欠」という信念を持って、原発を容認あるいは推進しているタイプ。
次に、原発について容認派か否定派かは置いておいて、理性的、ないし科学的に判断して、原発事故の報道に必要以上に過剰に反応しないタイプ。
最後に、「考えたくない」「考えても仕方ない」という消極タイプだ。
元々は思いやりもあり優しいほう、という先の女性の夫は、消極タイプなのかもしれない。
消極タイプがさらに進むと、この災害や事故自体を「なかったことにしたい」とか「現実のできごとと思わないことにしたい」とか、自分の心と今の状況との間にシールドを設けてしまう人が出てくる。
これが、「解離」と呼ばれる心の防衛メカニズムだ。
虐待児童は、「解離」で現実から逃避する
「解離」は、児童虐待を受けた子どもでしばしば認められることがある。
子どもが、虐待を受けたことをまるごと覚えていなかったり、「あれは夢なの」「映画で見たことだ」と言ったりすることがある。事実をそのまま認めてしまうと心が潰れてしまうので、それを恐れ、心が「解離」を起こしている結果なのだ。
虐待児童と同じ心理状況に、震災以来の日本人が陥ってしまっているのではないか。
特に、今後とも収束まで長期間にわたり神経質な対応が必要な原発事故は、日本人の心に大きな影を落としている。「ナイーブな人たち」がその影響を受けてしまうのは、十分あり得る話だ。
原発事故の報道は、実際、嫌でも毎日目に入ってきてしまう。それにもかかわらず、「なかったこと」「自分にはまったくかかわりがないこと」のように距離を置き、仕事とかギャンブルなど他の問題に没頭して過ごす、というのも、まさにこの「解離」のメカニズムが起きた結果と思われる。
政治の不全にも、指導者層の「解離」が影響しているのか
もしかすると、脱・原発の動きが加速するヨーロッパを横目で見ながらその動きがなかなか社会化していかない日本は、国全体で「解離」を起こしているのかもしれない。
そういえば、毎日、東電の「ふくいちライブカメラ」で福島第一原発のリアルタイム映像を一日中ウォッチしながら、「どうしてもこれが地続きの場所で起きているとは思えない。廃墟SFか何かのワンシーンにしか見えない」と診察室で語った、ひきこもり気味の青年がいた。
わずか4か月前には、菅総理も枝野官房長官も自分たちが原発事故について議論したり会見するとは、想像もしていなかっただろう。もしかするといまだに、ふとした瞬間に「え、これって現実? 夢か何かじゃないの?」とリアリティーを見失うことがあるのではないだろうか。
これらも、「解離」のひとつである。
もう少し敷衍すると、こんな時期に政局に明け暮れる国会自体、いちばん強い「解離」を起こしていると考えることも可能だ。
日本社会全体で起きている「解離」がどのように表出しているか、次回も考えてみたい。