山崎忠義が梅沢一家の舎弟頭に就いてから、すでに半年が経過していた。
海江田組は田上連合の直系組織になるという好機を逃し、「落ち目」と評されるほどの苦境に立たされていた。しかし、外部の評価に反して、組内は盛況で活気に満ちていた。丈二の二度目の人生と比べると、まるで別の組織のようだ。
 
『誰も死なせたくない』
 
三度目の人生でそう誓った丈二の願いは、ここまで完璧に守られており、三度目の人生では海江田組の誰一人として命を落としていない。
さらに、二度目の人生で個人的に始めたノーパン喫茶のシノギを、今回は仲西組のシノギとし、宿敵だった江原と組んで開始した金貸しも成功させたことで、丈二が関わったシノギは海江田組に大きな利益をもたらしていた。
また、かつては犬猿の仲だった氏家組と二代目山崎組の間、さらに兄貴分である佐山と江原の間に丈二が介入することで、奇妙なバランスが生まれ、以前の歴史と比べても揉め事や小競り合いはほとんど起きていなかった。
 
丈二は前の人生の記憶から、この期間には大きな事件がないことを知っていた。しかし、歴史が一回目や二回目とは大きく異なっていることを自覚しており、予期しない事態がいつ訪れるか分からないという緊張感を常に抱いていた。穏やかな日常に身を委ねることなく、鋭く研ぎ澄ました目で細心の注意を払いながら、日々を過ごしていた。
 
そんなある日、丈二は江原が経営する工商ローンの事務所にいた。かつての小さな雑居ビルとは違い、今や立派なビルの3階に居を構えた事務所は、近代的なオフィスが軒を連ねるビルの中で、銀行のように清潔で整然とした内装を誇っていた。
そんなオフィスの一角でデスクに座って仕事をしていた丈二は、書類を纏めてファイルに閉じ、「ふぅ」と息をついてから立ち上がる。すると、隣に座っていた孝が声を掛けて来た。
 
「丈二…………今日はもう上がるのかヨ?」
 
「ン?ああ…………まぁナ!
 それ程せっぱ詰まった要件もネーしな。」
 
「そうかい。順調そうでなによりだナ。
 ………………それはそうと………………オメー……今夜空いてネーか?」   
 
孝は椅子をくるりと回転させ、丈二へと身体を向けて覗き込むように話す孝。そんな孝に丈二は少しだけ首を傾げる。
 
「ん?今夜って…………ナンかあんのか?」
 
「イヤ…………特別ナニって訳じゃネーんだけどヨ………………
実は俺…………最近舎弟が出来たんだヨ。それでヨ?もしオメーがヒマなら一度会わせてぇと思ったんだが…………」
 
「へぇ~~~オメーに舎弟ねェ…………………………
って……………………ん?
もしかして…………………………舎弟って…………秋山元のコトか?」
 
「は?なんでオメーがゲンのコト知ってんだヨ?」
 
「あ!いや…………な、なんかウワサを聞いたんだヨ!?
………………誰がなんツーてたかは忘れたケド………………ハハ…………」
 
「はぁ!?」 
 
丈二の二度目の人生で、秋山元は4代目海江田組の若頭を務めていた。丈二は秋山と殆ど面識が無かったが、秋山がその当時に起こった本家を巻き込んだ親殺しに関与していた事で、丈二の記憶にその名が刻み込まれていた。
 
――そうか…………この頃に秋山はタカシの舎弟なったのか…………
前の人生じゃ俺が選んだ海江田組の4代目である志村の暴走に巻き込まれ…………組を破門になったんだったか………………
タカシを随分と信奉していて……いい極道だったって聞いたナ………………――
 
秋山の事はあまり知らずとも、2度目の人生の時の丈二の野心による歴史改変に巻き込まれ、その人生を大きく狂わされた被害者であることは明白だ。自分の目の届かない所で厳しい人生の選択を迫られ、転落した男の存在に胸が痛み、丈二は少しだけ眉を顰めると、孝の顔を見据えてその口を開く。
 
「なぁ、タカシ………………実はサァ……ちょっと事情があってナ…………俺りゃしばらくの間、外で飲まネーようにしてるんだヨ。」  
 
「あん?ナンだヨ?事情って………………」
 
「イヤ、えっと、その………………まぁ…………大したコトじゃネーんだけどヨ!
……………………でも…………俺もオメーの舎弟に是非会ってみてぇからサ………………また今度誘ってくれや!」
 
「なんだヨ?……………オメー………………まあたナニか面倒なコトにでも首突っ込んでんのかヨ…………
 ………………ったく…………なんかあんだったら言えよ?何でもかんでもテメー1人で抱え込んでんじゃネーぞ?」
 
「分かってる!今回はすまねぇ……タカシ!」
 
丈二はまるで拝むように両手を合わせると、孝へ向けて深々と頭を下げた。
 
 
丈二が夜の街に行かなくなった理由は数週間前に遡る。
新宿の片隅、通いなれた人気の少なく薄暗い喫茶店。その一番奥に丈二は座っていた。
合い向かいには地味なグレーのスーツを纏った7:3分けの何処にでもいる様なサラリーマン風の男が座っている。そして、いつもの事といった感じで黒いビジネスバッグから書類を取り出して丈二へと差し出すようにしてテーブルへと置く。それを丈二は黙ったまま手に取り、中に入っていた書類に目を通した。
 
「やっぱ…………こういうトコってあんま変わらネーんだよなァ…………」
 
丈二は書類を見つめながらそう呟くと、大きく息をついて背もたれに身を預けた。
 
「こういうとこ………………とは?」
 
男は地味な黒縁眼鏡の真ん中を人差し指で触りながらそう聞くと、丈二はそんな男の顔をちらりと一瞥して再び書類に目を落とした。
 
「いいんだよ別に…………オメーは気にしなくって…………
……………………それより………………
チームの連中にも言っといてくれ。これからも細心の注意を払って行動するようにってな。腕利きの探偵揃いなのは分かってるが…………バレたら俺だけじゃなくて全員芋づる式に地獄行きだからナ?」
 
「それは勿論です。くれぐれも無理だけはするなと言ってありますよ。」
 
「そうかい。
 ……………………とにかく…………これからが勝負所だからな………………
 ………………頼んだゼ…………」    
 
丈二はそう言いながら、報告書と書かれた書類の一部分にその目が釘付けになる。そこにはこう書かれていた。
 
『菊水会の幹部 鷹山忠(43)について
昨年の春、白木不動産における海江田組、組員による恐喝の件で仲裁に当たり、交渉能力の評価を落とす。その後自身の評判は組内で著しく下がり、最近ではことあるごとに「いずれ大きな花火をあげてやる」と舎弟たちに話している。』
 
丈二は神妙な面持ちで胸ポケットから煙草を取り出し火を付ける。
 
――白木不動産の時は顔を潰し過ぎネーように気を使ったんだけどナァ………………やっぱ二回目の人生ン時と変わらずか………………
確か…………前の人生の時もこんな感じで暴走して…………飴善屋一家の若頭、寺尾を殺し…………その報復で石田に殺されたんだよな…………
 
…………………………
………………そして………………コイツの舎弟である…………沖田努…………
ツトムが…………オヤッさんを殺すように命じられた………………――
 
二度目の人生で親友とも言える存在だった沖田努。一緒に過ごした時間は長いとは言えないが、二人は驚くほど気が合った。組は違えど「兄弟になろう」と誓い合う程に。
時には殴り合い、酒を酌み交わし、同じ女を愛した男。そして………………丈二がその手で殺した男。
三度目の人生となってそれまでの出来事がリセットされているとは言え、丈二のその手には沖田を殺めた時の感触が生々しく残っていた。
 
――ツトム………………もうあんなコトを繰り返すのはゴメンだ………………――
 
丈二は手にしていたタバコを灰皿に押し付けるようにして火を消すと、「ふぅ」と大きく息をついた。
沖田と過ごした日々の記憶は丈二の記憶にしっかりと残っていた。なるべく思い出さないようにと心の底に蓋をした記憶。丈二はその記憶の蓋を開けて沖田との思い出を蘇らせて行った。
その胸は思い返す場面場面によって痛みを伴ったが、そんなことお構いなしに沖田のことを思い出していく。そして、その出会いまで遡った。
二度目の人生で丈二は山崎のボディガードとなり、その祝いで舎弟たちと飲みに行った時。鷹山とばったり出くわし、そこで鷹山の舎弟だった沖田と出会った。そこから沖田とは小競り合いを繰り返しつつも、次第に丈二と沖田は心を許すようになって行く。
 
丈二は頭で考えるでもなく、沖田との出会いは避けなければと感じた。そもそも鷹山の顔を見たくないというのもあるが、本意ではないとしても自身の手で殺めた男だ。これからどうなるのか結果が分からない今、あの時のような関係を復活させるのは危ういと感じていた。
 
そして、この日から丈二は夜の街に繰り出すことを止めた。
 
 
そうして今、少しだけ怪訝な表情をしている孝の顔を見て、丈二はにこりと微笑む。
 
「そんな訳だから…………今日はトットと帰ェーるワ!」
 
「ああ…………分かったよ。おつかれ!」
 
丈二は孝へと軽く手を振ると、デスクの上に置かれたタバコとポケベルを無造作にポケットに入れて出口へと歩き出した。
その時、オフィスの奥にある店長室のドアが不意に開き、中から江原が顔を出した。
 
「おっ…………丈二チャンまだおったか。ちょいとツラ貸せや。」  
 
「えっ?………………ハ、ハイ…………」
 
丈二は少しだけその目を丸めつつ、江原の待つ店長室へと入って行った。工商ローンの店長室は豪華絢爛な氏家組の事務所とは違っていた。木製の広々としたデスク、革張りの応接ソファー、事務用の家具など、置かれている物は高級感が漂っていたが、決して派手ではない。
これは、どんな身分、立場のお客がここへ来ても、余計な感情を抱かせないようにしようとした江原の配慮だ。江原の民事に関しての能力は、丈二も疑いようもない。言葉一つ、振舞い一つとっても細心の注意を払い、決して隙を見せることはない。
丈二は江原に招かれるままソファーに座り、何やら書類を用意する江原の背中をみつめて深く息をつく。
 
――江原………………コイツと何か月か一緒にシノギをしてきたが…………流石に経済ヤクザとしてノシ上がって来ただけのコトはあるよな…………
西の工商ファンドは債務者だけでなく、関わる者全てのケツの毛までむしり、死に追いやるまで詰めるが………………江原は違う。債務者を同じように地獄に落とすにしても、超えてはいけないラインを守っている。その見極めが絶妙なんだよな………………――
 
丈二がそんな思いにふけっていると、江原は手にした書類を応接テーブルに並べてどすんと腰を下ろした。
 
「帰ろうとしてるトコすまんな。マネーショップエバラの新店舗出店の件なんやけどな?海江田のシマの外に店ェ出すっちゅうハナシで…………おどれが金龍寺一家の山下サンに口きいてくれたやろ?あくまで表の店ちゅーことであっこに店は出すが…………金龍寺に払うショバ代がな……………………」
 
目の前で書類をペラペラとめくりながら話す江原を、丈二は少しだけ目を細めながら見つめていた。
 
――いまだに慣れねぇな………………二度目の人生でアレだけ憎んだ江原とこんなハナシしてるなんて………………
俺は今………………コイツのコトを本心でどう思ってるんだろう?
好きか嫌いかって聞かれりゃ嫌いだけど………………二度目の人生での江原と違い過ぎて自分でも良く分かんネェんだよな……………………コイツもコイツで俺のコト好な訳ネーだろうし………………
…………そういや、未だにサシで飲みに行ったコトもネーな。
 
でも…………今のままなら二度目の時のように正人が氏家組に殺されるってコトは起きないだろう。 
 
それと………………探偵に探りは入れさせてるが、コイツが今でもシャブ扱ってるのかは分かってネーんだよな………………
氏家組の若頭、里見の方もそれっぽい動きは見えてない。前の人生では今頃、梅沢一家の辻井に空気入れられてたはずだが、今の所ソッチとの繋がりも見えていない。
 
…………賢治が生きているからコイツらの動きが鈍っているのか………………シノギが順調で皆忙しいから余計なコトを考えるヒマがないのか………………――
 
「オイ、聞いてんのかいな?」
 
「えっ!?あ、いや………………」 
 
不意に江原の聞こえ、丈二は驚いて肩を上下に動かした。
 
そうして、しばらくの間二人は話し合い、互いに納得の行く結論まで辿り着く。
 
「ホナ、それで行こう。あんじょう頼んだで?丈二チャン!」
 
「ハイ…………!」
 
丈二は素直に頭を下げて立ち上がる。すると、江原は座ったまま視線だけを丈二に向けてその口を開いた。
 
「丈二チャン………………このアト……暇か?」
 
「へ…………?」
 
「イヤ………………暇だっちゅーんならナ?………………その………………」 
 
その言葉に丈二はまるで鳩が豆鉄砲を食ったように驚く。すると、そんな丈二の顔を見た江原はまるで気の迷いを振り払うかのように、右手の掌を目に当てて少しだけ首を振った。
 
「イヤ…………やっぱなんもないワ。」 
 
「は?………………あ、そんじゃ…………俺はこれで…………」
 
「オウ………………」
 
丈二はそそくさと店長室を後にする。そして、ドアを閉めると思わず身震いしながら自分の身体に両腕を回した。
 
――今………………江原の野郎…………まさか俺を飯にでも誘う気だったのか? 
 
……………………
 
イヤイヤ………………まさか…………な…………――
 
 
そうして丈二はビルから外へと出ると、外の空気を肺一杯に吸い込む。そして、デスクワークで凝り固った身体を反り返して「う~~~」と声を上げた。
 
――それにしても………………前の人生じゃこの頃…………俺はオヤッさんのボディガードやってたんだよナァ…………
今回の人生でも俺に白羽の矢が刺さりそうだったみたいだけど、若頭が止めてくれて助かったゼ…………こう忙しいとそれどころじゃネーし、少し先までオヤッさんに危険なコトが起きネーの分かってるからナ…………――
 
丈二はそう考えながらポケットに両手を突っ込んで歩道を歩き出す。夕暮れ時の街は人で溢れ、そんな人込みをかき分けるように歩いていると、不意に背後から自分を呼ぶ声が聞こえた。
 
「阿久津サン?…………阿久津サンじゃないですか!」 
 
丈二は聞き覚えのある声に振り返ると、そこには元、舎弟だった近田、土橋、聡の姿があった。三人は丈二にとっては見慣れない、伊勢丹あたりで買って来たであろう新品のリクルートスーツを纏っていた。※リクルートスーツは伊勢丹が発祥。
 
「オメーら…………どうしたんだヨ?そんなカッコして…………七五三の帰りかぁ?」
 
丈二の言葉に近田が頭をかきながら答える。
 
「イヤ〜〜〜…………実は今日、3人で企業説明会に行って来たんですヨ!」
 
「企業説明会だぁ〜?オメーらみてぇなモン呼ぶ酔狂な会社って…………ヤクザのフロント企業かなんかかぁ?」
 
皮肉たっぷりの丈二に対して、土橋が鼻息を荒くして詰め寄ってくる。
 
「イヤイヤ……そんなんじゃネーんですって!
聞いて下さいヨ………………今日行って来た会社はネ…………なんとゼネコンの七洋建設なんです!」 
 
「はぁ!?七洋建設っていや…………俺でも知ってる一流のゼネコンじゃネーか…………だからってオメーらみたいなモンがおいそれと入社なんて出来やしネーだろ?」
 
苦虫を噛み潰したような表情を浮かべる丈二を見て、聡がニヤニヤと不適な笑みを浮かべながらにじり寄って来る。
 
「イヤ〜〜〜それがネ…………………俺たち、あそこの専務に気に入られちゃってェ…………
お前らみたいな威勢のいい現場監督が必要なんだって言われちゃったんスよ!
そんで…………来年から3人とも面倒見るって…………」
 
「ああん!?馬鹿コケッ!!
フカしてんじゃネーぞ?このヤロー………………
そんな都合のいいハナシ…………あってたまるかよ!」
 
「それがあるんですから世の中ワカラン!」
 
聡が腕を組んでウンウンと頷いていると、近田も満面の笑みを浮かべてその口を開く。
 
「そんなワケなんで………………
阿久津サン!もし、家建てるってなったら是非俺たちに相談して下さいヨ!
特別サービスしますんで♡」
 
「はぁ?………………ナニが悲しくてオメーらが建てた家になんぞに住まなきゃなんネーんだヨ………………」
 
丈二がそう答えると、不意にポケベルの音がピーピーと鳴り出す。
 
「アレ………………石田からだ…………なんかあったカナ?」
 
すると、そんな丈二を見ていた近田が気を使って声を掛けてくる。
 
「そんじゃ、阿久津サンお忙しそうなんで、これで失礼します!
…………また今度飲みに行きましょう!」
 
「ん?あ、ああ………………そうだナ!」
 
丈二がそう答えると、3人は揃って丈二に頭を下げ、再び歩道を歩き出す。丈二はそんな3人の後ろ姿を見ながらその眉を顰めた。
 
「近田………………サトシ………………土橋…………」
 
一人一人の名前を呟くと、二回目の人生の3人の姿が脳裏に浮かんで来た。
 
テロリストの攻撃で片足を失った近田。親であった自分への義理と、渡世人としての意地の狭間で命を散らせた聡。そして、賢治に愛する彼女を殺され、自身も頭に銃弾を受けた土橋。
全て自分の身勝手な野望の犠牲だった。
 
それが今、三度目のこの人生で、平穏な未来を手にしようとしている。
そう思うと、丈二の胸に心の底から3人に対して安堵する気持ちが湧き上がって来た。
 
しかし。
 
それとは裏腹に近田達の背中を見つめる丈二の表情は少しだけ寂しげだった。