「お~~~~!なえちゃんピーマン食べれるんだぁ~~~えらいねぇ~~~~」

不意に聞こえたまゆりの声に、紅莉栖は思わずその肩を上下させる。

「はっ…………!」

紅莉栖はその瞳を開けると、そこは皆でバーベキューをしたラボの屋上だった。
今までいた屋内とは一変し、湿気をはらんだ空気に身を包まれ、外の喧騒がいきなり耳に飛び込んで来る。

――成功した……!……昨日の夜に……戻ってこれた………………――

ラボの屋上に置かれた鉄板を囲うようにして、見知った仲間たちが座っている。その中に混ざって座っていた紅莉栖は、思わず立ち上がって周りをきょろきょろと見渡した。

「なえちゃん…………まゆり…………橋田…………フェーリスさん。…………店長さん…………桐生さん…………そして……漆原さん……………………

………………岡部…………岡部は…………………………?」

紅莉栖は呟きながら一人ずつメンバーを確認すると、輪の中に岡部がいないことに気付き、息が詰まるような感覚に襲われて思わず手を胸に当てた。すると、鉄板を挟んではす向かいに座っていたまゆりが不意に声を掛けて来る。

「オカリン…………?紅莉栖ちゃん、オカリンがどうかしたの?」 

まゆりの口から発せられた「オカリン」という言葉に、紅莉栖の胸は大きく鼓動を打つ。

「まっ…………まゆり!岡部のことが分かるの?岡部を知っているの!?」

「ふぇ?オカリンを……知ってる?………………紅莉栖ちゃん…………どうしちゃったの?」

「え?…………い、いえ……………………なんでもないわ…………」

紅莉栖は不思議そうな表情でぽかんと口を開けるまゆりを見て、岡部が存在する世界線に自分がいることを確信する。タイムリープしてもそこに岡部がいないのではないかと言う不安は払拭され、安堵にも似た気持ちが心の底から湧き上がった。しかし、同時にこれから起こる事態を思い出して心を急かされる気持ちに塗り替えられていった。
そして、辺りをきょろきょろと見渡して岡部の姿を探していると、鉄板を囲むラボメン達とは離れ、屋上の隅の手すりにもたれかかって立つ岡部の姿を見つけた。

「岡部!!」

紅莉栖は無意識に岡部の名を叫び、傍へと歩き出したその瞬間。
まるで頭の中を掻き回されるような感覚に襲われ、無意識に頭に手を当ててうつむく。

「うぅっ…………」

それは以前にも経験した不快な感覚。それが意味する事はもう理解している。紅莉栖は、その感覚を少しでも振り払うように、頭を左右に振って眉間にしわを寄せた。そうして再び顔を上げると、紅莉栖の目の前に居たはずの岡部は、まるで霧隠しにでもあったかのように忽然とその姿を消している。

――岡部が…………消えた……………………――

紅莉栖はそう思うと同時にラボメン達の方へと振り返る。鉄板を囲んでワイワイと騒ぐラボメン達は、岡部が消えたことなど全く気づく様子もなく、それぞれが思いのまま楽しそうに過ごしている。そしてすぐに紅莉栖は、再び岡部のいた場所へと視線を戻す。

――今度は…………私でも観測出来た…………岡部が消え、世界線が変わる瞬間を…………――

紅莉栖がそう思った瞬間。
再び頭の中を掻き回されるような不快感に襲われる。

「はうっ…………」

その何とも言えぬ感覚に、紅莉栖はまた頭に手を当ててそう呟くと、同時に紅莉栖の視界に岡部の姿が忽然と現れた。それはまるで手品でも見ているかのように。そして岡部もまた、紅莉栖と同じく頭に手を当ててその顔を顰めている。

「岡部っ!」

紅莉栖は叫ぶように声を荒げて岡部の名前を呼ぶ。そして、同時に側へと駆け寄って岡部の肩を掴んだ。そんな紅莉栖の勢いに、岡部は驚いた表情を浮かべ、取り繕うようにしてその口を開く。

「くっ紅莉栖…………?
ああ…………いや…………その……大丈夫だ。少し眩暈がしただけで…………」

岡部の言葉に紅莉栖は察する。岡部は自身に常識では説明出来ないような異常が起こっていることに多少なりとも気づいていると。そして、余計なことは言わないように取り繕っているのだと。

「岡部…………いいのよ。
……………………全部……分かっているから。」

「分かってる…………?
何を…………だ?…………いったい何を分かってるって言うんだ……?」

「いいから!ここで話す訳にもいかないし…………とりあえずラボに戻るわよ。」

「ラボに戻るって…………な、なんだ急に紅莉栖!…………お、おい、ちょっと紅莉栖!」

困惑する岡部をよそに、紅莉栖は岡部の手を引いて階段へと歩き出す。岡部はかつて見たこともない程に強引な紅莉栖に困惑しつつも、フラフラとその後を付き従って行った。


「世界線を…………移動していた…………?」

岡部はラボのソファに座りその目を丸めていた。その様子に紅莉栖は眉を顰め、岡部の目の前に立って腕を組みながら神妙な声でその口を開く。

「ほんの僅かな間だけど…………まるで神隠しに会ったみたいに……アンタは私の目の前から忽然と姿を消した。…………それと同時に私は頭の中をかき回されるような…………去年の春、大学でアマデウスを消去した時と同じような感覚に襲われたの。あれは…………きっと…………リーディングシュタイナーとしての独特な感覚なんでしょうね…………」  

「そ……そうだったのか……………………俺は…………この世界線から姿を消していたのか…………それがあの眩暈の原因………………
でも……いったいどうして…………過去を改変するようなコトは何一つしていないというのに…………」

「岡部………………」

困惑してうつむく岡部を、紅莉栖は黙ったまま心配そうに見つめていた。すると岡部は、はっとその目を見開いて紅莉栖を見上げる。

「そう言えば………………お前がβ世界線にいた時……その世界線の俺も過去改変せずにα世界線へと移動したことがあったと言っていたな。」

「うん…………β世界線の岡部からはそう聞いたけど…………」

「それと同じ現象が今…………俺の身にも起こっていると言うコトなのか……?」

「そ、それは…………」

紅莉栖は無意識に手を胸に当て、岡部の視線を外すようにしてうつむく。β世界線での現象と、結果は同じだとしても原因が違う。どうしてそうなるのか、そしてどうしたら回避出来るのか、その答えを持たない紅莉栖は思わず口をつぐんだ。

「な、なんだ?どうした?」

明らかにその表情を曇らせている紅莉栖を見て、岡部は不思議そうに問いかける。紅莉栖は岡部に起こっている不可思議な現象だけでなく、自分がタイムリープしたことを告げることに躊躇いを感じる。だが、何のために自分がここへ戻って来たのかを思い返し、気持ちを切り替えるように「ふぅ」と、大きく息を吐いた。そして、真摯な瞳で岡部の視線を見つめながらゆっくりとその口を開く。

「β世界線で起こった現象とは……違うと思う。」

「違うだと?何故そんなにきっぱり言い切れるんだ?他に何か変わったことでもあると言うのか?」

「………………あるわ………………」

紅莉栖はぽつりと呟くと、再び視線を床へと落とす。そんな紅莉栖の様子を岡部は真剣な眼差しで見つめていた。紅莉栖はその刺さるような視線を痛いほど感じつつも、うつむいたままゆっくりと話を続けた。

「岡部……アンタは明日…………この世界線から消える。
そして…………そうなってしまう原因は…………………少なくとも5年以上前、アンタとまゆりの出会いが関係しているのよ。
………………β世界線で起こった突然の世界線移動はそれまでに過去で行った行動に起因してた。でも…………今の岡部に起こっているのは…………タイムリープマシンでは戻ることの出来ない、ずっと過去の出来事の改変によるものなのよ…………」

「な!!…………なんだって?………………明日俺が消えるだと?5年以上前の過去が改変されてることが原因だと?…………お前…………どうしてそんなコトを……………………!」

岡部はその目を見開いてソファーから立ち上がる。そして、無意識に紅莉栖の両肩を掴んで声を荒げた。

「どうして!…………そんなコト…………お前が知っているんだ!!どうやって知ったって言うんだ!!………………まさか!…………まさかお前…………」

感情に任せてその肩を掴まれた紅莉栖は、岡部の視線を避けるように下を向いて痛みにその顔を歪めた。

「痛い………………痛いよ…………岡部…………」

そんな紅莉栖に構わず岡部は続ける。

「紅莉栖…………お前……………まさか、タイムリープマシンを…………!!」

岡部がそう問い詰めたその時、ラボのドアがガチャリと音を立てて開いた。その音に岡部は少しだけ正気を取り戻し、紅莉栖の肩から手を離して後ずさる。すると、洗い物を抱えたまゆりが現れ、2人を見て首を傾げた。

「あれ〜〜〜オカリンに紅莉栖ちゃん、ここにいたんだ〜。上にいないからどこ行っちゃったのかと思ったよ~~?…………何かあったの?」

「イヤ………………」

岡部がそう答えると、まゆりはシンクに洗い物を置いて、再び話し出す。

「今ね、フェーリスちゃんが焼きそば焼いてくれてるんだよ?2人とも、早く戻らないとなくなっちゃうよ〜〜〜?」

「あ、ああ…………そうだな。」

「う、うん…………」

岡部と紅莉栖は、まゆりに気の抜けた返事を返すと、そのまま立ち尽くして何も言わずに食器を洗うまゆりの背中を見つめていた。

その時。

急に岡部は眉間にシワを寄せ、頭に手を置いてしゃがみ込んだ。

「うぐっ…………はぁ…………はぁ…………」

そんな岡部の様子を見た紅莉栖は、慌てて岡部の横へとしゃがんで肩に手を掛ける。

「ちょっと!…………岡部!大丈夫?………………
……………………うぅっ…………!」

紅莉栖がそう言った瞬間。
自身の頭に不快な感覚が走り、反射的に片方の手を頭に当てて顔を顰める。そして、横にいる岡部へと視線をむけると、再び岡部は紅莉栖の前から忽然とその姿を消していた。

「岡部!!」

その声に洗い物をしていたまゆりが振り返り、首を傾げながら口を開く。

「おか…………べ?
紅莉栖ちゃん、誰かいるの?」

「まゆり…………」

「ここには2人しかいないのに……急に知らない人の名前叫ぶからまゆしぃびっくりしちゃった…………紅莉栖ちゃん、なにか考えごとでもしてたの?」

「え………………う、うん……まぁ………………」

「そっかぁ。それじゃ、紅莉栖ちゃん、私上に行ってるね。」

「うん…………」

紅莉栖はパタパタと音を立ててラボを出ていくまゆりの背中を見送ると、再び岡部が消えた場所へと視線を送った。

――岡部…………………………
今……どんな世界線へと行ってるんだろう?…………どうしてこんなことが………………
私が知る限り、この世界線の岡部に起こってる現象はβ世界線では起きていない………………
β世界線の岡部とシュタインズゲート世界線の岡部…………2人の違いは何…………?――

紅莉栖は岡部の消えた場所を見つめながら考えを巡らせる。すると、再びラボのドアが開き、今度はダルが部屋へと入って来た。

「お、牧瀬氏?
起きてても大丈夫なん?」

「え?」

「酔っ払っちゃって休むからラボに戻って来たんでしょ?」

「私が…………酔っ払う?
ああ…………そうね…………この時は確か………………」

「ま〜〜〜元気なら別にいいんだケド…………
それより、起きてるなら部屋暗いから電気付けてもいい?」

「え?うん…………いいわよ?」

紅莉栖の言葉にダルは頷くと、部屋の照明を灯してPCの前へと座り、電源を入れた。そして、程なくして再びまゆりがラボへと戻って来る。

「お皿持って行くの忘れちゃった~~~せっかく洗ったのにぃ。まゆしぃおっちょこちょいさんだなぁ。」

てへっと照れ笑いを浮かべながらシンクへと歩くまゆりを見て、紅莉栖はタイムリープする前、既に経験しているこの時の出来事を思い返す。

――そろそろ…………岡部が戻ってくるはず…………
ここをα世界線だと思い込んで……何者かに襲われると錯覚した岡部が…………――

紅莉栖はそう思うと、再び岡部が消えた場所へと視線を向けた。すると紅莉栖の記憶通り、聞き覚えのあるまゆりのセリフが聞こえて来た。

「あれ?布巾がないなぁ~~~?
新しいの買っておいたはずなのに。」

その瞬間。
紅莉栖の目の前に、唐突に岡部がその姿を現した。
紅莉栖はまた頭の中に言いようのない不快感を感じるが、そんなものは無理矢理抑え込んで目の前の岡部の肩を掴む。

「岡部!
ここはシュタインズゲート世界線よ!」

岡部は頭に手を置き、額には大粒の汗を無数に垂らしながら紅莉栖へと顔を向けた。

「な…………に…………そんなバカな…………
来る…………ヤツらが……早くまゆりを………………」

「岡部落ち着いて!ここはα世界線じゃない!
誰もここに来たりなんかしないわ!」

深刻そうなやり取りを続ける2人を見ていたまゆりとダルは、心配そうな表情で二人の傍まで歩み寄って来た。

「どしたんオカリン?もしかして酒でも飲んだん?」

「オカり〜〜〜ん…………いったいどうしちゃったの〜?」

岡部は見開いた目でそんな2人の顔を見回すと、再び紅莉栖へと顔を向けた。

「…………も……もしかして…………俺はまた世界線移動を…………」

「うん…………わずかな間だけど…………
完全にこの世界線から姿を消していたわ…………」

「そ、そうか…………」

岡部は力無くそう言うと、ゆっくりと立ち上がってラボの入り口へと、身体をふらつかせながら歩き出した。
そして、玄関まで進むと立ち止まり、顔だけを横に向け、紅莉栖へと話しかける。

「紅莉栖…………ちょっと来てくれ………………」

「う、うん…………」

紅莉栖は心配そうな表情で岡部の背中を見つめながら立ち上がり、付き従うようにして岡部と共にラボを後にした。


公園の街灯に薄く照らされた階段に、岡部と紅莉栖は腰をおろして2人ともぼーっと前を見つめていた。
特に紅莉栖は、岡部に対して気後れして、かける言葉が思い浮かばない。岡部が明日、この世界から消えていなくなると言う現実を突きつけたこと、更に岡部が最も嫌がるであろうタイムリープマシンを使ったこと。それを思うと隣に座る岡部の胸中を察して自分の胸もズキズキと痛んでいた。

「3000回のタイムリープだったか………………」

不意に聞こえた岡部の声に、紅莉栖ははっとして顔を向ける。紅莉栖の瞳に写る岡部は、青白い光に照らされ、物悲しげな表情で前を向いていた。

「え……………………」

「タイムマシンに乗ったまゆりを救う…………
その為に何度もタイムリープをして…………β世界線の俺は2036年の未来から帰って来たんだよな………………」

「う、うん………………そうだけど……………………なんで今そんなこと………………」

岡部は紅莉栖の問いに答えず続ける。それに対して岡部は立ち上がって前を向いたままその口を開く。

「そしてアマデウスとか言うAIだったお前を………………β世界線の俺はDメールを使って過去へと送った。
……………………未来を変える為に。」

「…………………………」

紅莉栖はその言葉に何も言わず、岡部の横に寄り添うように立ち上がってその顔を見つめた。
岡部は物悲しげな表情を変えず、ただ虚な瞳で宙を見つめていた。その顔つきから、紅莉栖は岡部が何を言いたいのか少しだけ察する。そして、少しだけうつむいて息を一つ吐いた。

「少しだけ分かる気がする。アンタが何を言いたいのか。
…………こういう事が起こった時…………アンタはβ世界線での岡部の行動を見ていた私が迷わずタイムリープするだろうと思ってた。
……………………だから…………何かにつけて私に他の世界線のことは忘れろって言ってたんでしょう…………?」

「そうだ。
お前はβ世界線からシュタインズゲート世界線までの変化をその身で体験している。
………………だから、過去改変をすれば未来は自分の思う様に変わるとでも思っているだろう?」

「思いのままとは…………思ってないケド…………」

「だが、現にこうしてお前はタイムリープしている。
β世界線で上手く行ったからと言って…………今回もすんなり行くと思っているのか?」

「なによ…………そういう言い方…………」

「アトラクタフィールドの収束。それをお前は味わったことがないだろう?
どんなに過去を改変しても…………同じ結果に収束してしまうあの無力感を。」

「そ、それは……………………」

「紅莉栖………………お前が今やろうとしている過去改変…………それが上手く行かなかったらどうする?」

「どうするって……………………」

「答えは簡単だ。もう一度やる。………………上手く行くまで何度も過去に戻り何度も試す。
…………時間を遡る方法がある限り、人は必ずそうする。そうしてしまうんだ!

…………………………
 
いいか………………このシュタインズゲートに辿り着けたのは砂漠の中から砂金を探す位の奇跡なんだ。
………過去改変しようとしたとして、その殆どは苦しみを増してしまうだけだ。
…………一つの過去改変は、別の何かに必ず影響を及ぼす。自分の都合のいい様に改変されることなどまずない。
………………誰かを救えば…………誰かを失う。やっと叶えた思いをなかったことにし、ずっと願い続けた思いを根こそぎ奪い取り、そこまでしても尚……自分の願った過去の改変は行われず、逃れられない現実に直面し続ける。」

岡部はその顔を顰め、ギリギリと奥歯を食いしばってから声を荒げる。
  
「…………何度も…………何度も何度も何度も!!
…………全ての犠牲の責を負い、それでも繰り返さなければいけない苦しみが分かるか?…………その中で心が摩耗し、人としての感情が無くなっていく恐ろしさが分かるか?」

「でも……………………」

「例え方法があっても…………過去を改変してはならない。あったかも知れない可能性を現実にしてはならない。未来は誰にも分からないもので、やり直しが効かないからこそ、あらゆる不幸や苦しみも理不尽な事故も人は受け入れ、前進できるんだ。」

岡部がそう言った刹那。紅莉栖は岡部の両腕を掴み、悲痛な表情で岡部へと訴えかける。

「だったら………………岡部はどうするの?

……………………

岡部………………消えて無くなってしまうのよ?私………………見たの。あなたが存在しない世界を…………………………まゆりと橋田と私……3人のラボを。
誰も………………岡部の記憶がないラボを………………!

………………………… 
 
それは…………………………死ぬよりも残酷なことよ?」

紅莉栖はその顔を左右に振りながら岡部の瞳を見つめる。

「生きていた証も……………………意味もここから無くなってしまうのよ……………………!」 

岡部は真摯な紅莉栖の言葉にその目を細める。そしてしばらくの間、何も言わずに紅莉栖の瞳を見ていた。そんな岡部に対して紅莉栖は何も言葉を出せずにいると、岡部は固い決意をその表情に浮かべつつ、真剣な眼差しで紅莉栖の瞳を真っ直ぐに見つめ、ゆっくりと口を開いた。

「………………………………構わない。」

「は……………………」

紅莉栖はそのあまりにも重い言葉に思わず息を飲む。そして、岡部の腕を掴んでいた手を無意識にゆっくりと離した。

「岡部………………」

「俺が望んだのは、おまえとまゆりが何事もなく生き続け……未来へ歩んで行くこと…………それだけだ。
それさえ叶えられればそれでいい。」

「今岡部がそう言っていることも、何をしてきたかも、岡部の名前も………………みんな忘れてしまうのよ!?」

「しかしまゆりは死なない!…………紅莉栖も生きて行ける………………」 

あまりにも頑なな言葉と表情。紅莉栖はそこに自分の言葉が介入する余地はないと思わず感じてしまう。
しかし。それを聞いても尚、紅莉栖の胸の奥には拭いきれない違和感があった。
真夏の深夜に吹く温い風が紅莉栖の髪を撫でる。紅莉栖は揺れ動く髪を手で押さえつつ、岡部の視線を避けるようにして横を向いた。

「………………全てを一人で背負って…………この世界から消えることを望むのね……………………
でも…………私だけは覚えてる。β世界線のことも、α世界線のことも。そして、このシュタインズ・ゲートに辿り着くために、それぞれの世界線の皆がどれだけのことをしてきたかを。」 

「紅莉栖………………誰の記憶にもないものを………………自分だけが覚えているというのは…………………………苦しいものだ。誰にも相談できず、話したところで誰にも理解されない。
………………孤独だ。」

「だからアンタのことを…………忘れろって言うの?
誰にも相談出来ないことや、理解されないことなんて…………今更アンタに言われなくても………………」

「いや、分かってない。
お前が去年、ヴィクトルコンドリアで過去改変してからずっと…………この世界には2人観測者がいたんだからな。
………………だが、明日からは違う。
お前の苦しみや悲しみを知る者は………………お前以外、他に誰もいなくなるんだ。」 

岡部の言葉に紅莉栖はうつむいて拳を握りしめる。そして、小刻みにその小さな肩を震わせていた。

「だから………………全てをなかったことにして忘れろって言うの…………?
そんな事が……本当に出来るとでも思っているの?」

「出来る出来ないじゃない。そうする他に道はないんだ。
………………周りの人間と同じように、元々いなかったモノと思うんだ。今この瞬間は夢だったと………………」
 
「だから!!!」

公園内に響き渡るほどの紅莉栖の声に、岡部は驚いて眉を動かして目を見開く。そんな岡部に対して紅莉栖は相変わらず視線を避けるように横を向いたまま、声を詰まらせながら再び話し出した。

「だから………………そんな事出来る訳がないでしょう………………?
元々いなかった?…………夢だと思え?
人の記憶なんて自分の都合のいいよう消したり残したり出来ない。…………それは岡部が一番分かってるハズよね?」 

「それは………………」

その時。紅莉栖の脳裏にタイムリープする前のこの夜の出来事が思い浮かんで来た。屋上からラボへと続く階段の中、窓から差し込むうす暗い街灯に照らされながら岡部と話した時のことが。

――――もう…………2度と大切な人を失うような思いをしたくないんでしょ…………?

そして…………
もう2度と。

私やラボメン達にも辛い思いをさせたくない。

だから…………だからアンタは…………
Dメールも………………
タイムリープマシンも…………
他の世界線のことも…………
シュタインズゲートさえも。
その全てを忘れて無かったことにしたいのよ。
だから…………あの時をことを繰り返す可能性を少しでも遠ざけたい…………
出来れば何もかも消し去ってしまいたいんでしょ…………?

その為に…………――――

紅莉栖は胸が痛んで思わず手を当てる。そして、大きく息を吐いてから再びその口を開いた。

「…………そんなに簡単に………………自分の事を忘れろって言ったり………………
まるでずっと前から決めてたみたいに…………消えるって選択が出来たり………………

そこに………………………………

…………そこに私の意思なんて…………全くないじゃない…………………………」

「紅莉栖………………」

岡部が心配そうに紅莉栖の名前を呼ぶと、うつむいていた紅莉栖はその顔を上げ、岡部へと振り返った。街灯の灯りに薄く照らされた紅莉栖の白い頬には、止めどなく涙が流れ、小さな鼻は赤く染まっていた。嗚咽するでもなく、怒る訳でもなく、ただただ切なく寂しげな表情で瞳から大粒の涙をこぼし続けている。そんな紅莉栖の表情に岡部は胸が締め付けられるような感覚を覚え、思わず息を飲んだ。

「………………どうしてそんなに勝手なのよ…………………………
消えちゃうって言うのに………………どうしてそんなに客観的でいられるのよ……………………」

「…………………………すまない…………」

岡部が申し訳なさそうにそう言った瞬間。紅莉栖は両手を広げて岡部の胸に飛び込んで行った。

「ばかぁ!!」

紅莉栖は岡部の胸の中でそう叫ぶと、両手できつく岡部の身体を抱きしめながら堰を切った様に泣きじゃくった。そんな紅莉栖に岡部は少しだけ困惑するが、ゆっくりと両腕を紅莉栖の腰へと回す。そして、優しく包み込むようにして紅莉栖を抱きしめた。

その時。

紅莉栖の頭にあの不快な感覚が襲って来る。そして、その身体から急に岡部の温もりが消え、岡部を抱きしめていたはずの腕は自分の身体を受け止めるようにして空回りしていた。あれほど昂っていた感情はすーっと熱が引くように収まり、フラフラとその場から後ずさった。 

「岡部!!」

紅莉栖は悲痛な声で岡部の名を呼ぶと、それに呼応したかのように再び岡部はその姿を現す。しかし、岡部は苦痛でその顔を歪め、しゃがみこんで大粒の汗を額に浮かべながら息を切らせていた。

「ぐっ!…………うぅう…………うぐっ!………………はぁ…………はぁ…………」   
 
「岡部!大丈夫?…………岡部!!」

紅莉栖はすぐさま駆け寄り、寄り添うにしゃがんで岡部の背中に手を当てる。

「ほんの一瞬消えていただけなのに………………移動を繰り返す度に酷くなってる…………」

頭に手を当てて苦しそうに「はぁはぁ」と荒い呼吸をする岡部を、紅莉栖は心配そうに見つめていた。岡部はしばらくの間うずくまる様にして息を切らせていたが、少しずつ落ち着きを取り戻して行く。そして心配かけまいと紅莉栖へと顔を向けた。

「だ…………大丈夫だ…………」

「本当に大丈夫なの?」

「ああ…………すまない…………」

紅莉栖は容体を確認するようにして黙ったまま岡部の顔を見つめていたが、心の奥に引っかかる物を感じていた。そして、落ち着きを取り戻したのを確認するとそれを言葉にする。

「…………ねぇ、岡部………………
今……………………岡部は一体どんな世界線へ行って…………何を見て来たの…………?」

「それは…………」

岡部はゆっくりと立ち上がると、その表情に暗い影を落としながらその口を開いた。

「正直…………俺も何処に行ったのか良く分からないんだ…………」

「え…………?」

「俺は今……この世界線から消えていたんだよな?」

「そ、そうよ?
ラボにいた頃から何度も……消えたり戻ったりを繰り返してるわ………………」  

「そうか……………………
と、言うことはつまり……世界線を移動していたのは間違いないんだな…………」

「一体…………なんのことを言っているの………………?」

岡部は紅莉栖へと身体を向け、真剣な表情で話し出す。

「俺はさっき…………頭の中をかき回されるような感覚と強い眩暈を覚えた後………………ここに戻るまでにいくつもの世界線を見た。」

「ええ!?…………複数の世界線…………?あの短い間でいくつもの世界線を移動して来たと言うの?」   

「そうだ。まるで幻覚を見せられているようだった………………
だが、こうして冷静に思い返してみると、あの数々の世界線に……俺は実際に行っていたと思う。
………………………………
思えば………………これまでに移動した先も常に違う世界線だった。
しかもその中には………………行った覚えのない世界線もあった…………」

「行った覚えのない世界線って…………どんな世界線を見たって言うの?」

紅莉栖の問いに岡部は思わず奥歯を噛みしめる。そして眉間にぎゅっとしわを寄せながらうつむいた。

「なえちゃんが………………恐らくだが…………萌香を…………殺していた……………!」 

「……………………!」

紅莉栖は思わず両手を口に当てる。そんな紅莉栖を横目に岡部は続けた。

「お父さんを死に追いやったお前たちを許さないと言っていた……………………
勿論俺にそんな記憶はない。………………だが………………あれは間違いなく実際にあったであろう世界線の一つだ。
それと………………他にも……ラボメン達と自転車に乗って橋を渡っている世界線もあった………………だが、どうしてそんなことになっているのか…………何処に向かおうとしているのか………………俺には分からない。」 

紅莉栖は岡部の話を聞きながら冷静さを取り戻し、手の甲を顎にあててうつむく。

「やっぱり…………β世界線で起きた現象とは違うわね…………………………
もっと詳しく調べてみないと分からないけど………………岡部が行った世界線……それぞれに因果関係はあまりなさそうに感じる……………………

………………もし、そうだとして………………

…………世界線を移動してしまう原因は別にあって…………行先は無作為に選ばれているのだとしたら…………………………」

紅莉栖はうつむいたまま暫く黙って考え込むと、ゆっくりとその顔を上げて岡部の正面に立つ。

「リーディングシュタイナーの能力が……暴走している………………?」

「えっ!?リーディングシュタイナーが暴走…………?でも一体どうして…………β世界線の俺にはこの現象が起こってないんだよな?

………………シュタインズゲート世界線と…………β世界線とで…………一体何が違うって言うんだ………………!」

苛立ちを隠さず、紅莉栖から身体を背け、地面に向かって荒々しく話す岡部を紅莉栖は黙って見つめていた。真剣な眼差しでただただ岡部を見つめる紅莉栖。その雰囲気に気付いた岡部は何も言わずゆっくりと紅莉栖へと身体を向ける。すると、紅莉栖は岡部の瞳を真っ直ぐに見つめながらその口を開いた。

「シュタインズゲート世界線とβ世界線との違い。

…………………………

…………………………それは………………私。」 

「はっ…………!」

思わずその目を丸める岡部に対して、紅莉栖はゆっくりと続けて話す。

「岡部がα世界線で散々苦しんだ、アトラクタフィールドの収束を…………強引とも言える方法で無理矢理回避したこの世界線は………………他の世界線と比べたら脆弱なのかも知れない。
まゆりと私…………本来ならどちらかが死ぬはずなのに、二人とも生きているこの世界線は…………私たちの見えない所で振り子のように揺れているのかも…………
…………そしてそれは揺らぎとなって…………岡部の持つ他の世界線での強力な記憶に反応してしまう…………………………あくまで仮説だけど…………………………」

「なるほど………………確かにそうなのだとしたら……β世界線との違いについて説明がつくな………………………………
そして……………………それが正しければそんなモノを回避する方法なんてありはしない。お前が言う通り…………人の記憶は都合の良いように消したり残したり出来ないのだから。」 

岡部は呟くようにそう言うと、紅莉栖から背を向ける。

「いずれにせよ…………5年もの年月を遡る方法もない。
………………だから…………もう…………この状況をどうにかしようなんて考えるな…………そんなことを考えるくらいなら……これから先どう生きて行くかを考えた方がいい……………………」
 
「これから先って……………………
……………………アンタがいない世界をってこと……………………?」

「………………………………………………

……………………………………そうだ。」

「…………………………」

岡部は宙を見つめ、紅莉栖は岡部の背中を見つめながら二人は押し黙る。
岡部は紅莉栖の自分へ対しての想いと、明日消えてしまうという現実がその胸を交錯し、ズキズキと痛むのを堪えるかのように歯を食いしばった。
そして、それを振り払うようにして頭を左右に振ると、歩き出そうと足を前に出す。

しかし、その時。 

岡部の右手首を紅莉栖が勢いよく掴んだ。それに驚いた岡部は思わず振り返る。

「く、紅莉栖………………?」

「アンタに言われなくても…………自分のことなんてちゃんと考えてる!!

……………………でも、私は戻って来た!

アンタがなんて言おうと………………
このまま何もせず…………ただ諦めるだけなんて……………………」 

必死の形相で叫ぶ紅莉栖の頬に一筋の涙が流れる。

「私には……………………私にはっ………………!!」 

切に願うように、懇願するように泣きながら訴えかける紅莉栖を見て、岡部は思わずその眉間にしわを寄せる。そして、同時についさっき紅莉栖が言っていた、ある言葉が脳裏をよぎった。

――――…………そこに私の意思なんて…………全くないじゃない…………………………――――

「くっ…………」

岡部は適当な言葉が思い浮かばず、思わず口ごもってしまう。すると、紅莉栖は岡部の手首を握りしめながら、空いた手で携帯を取り出した。そして、電話帳を開き、片手で手早く検索して電話を掛け始める。

「お、おい…………紅莉栖?電話なんて一体どこへ………………」 

そんな岡部の問いになど応えず、紅莉栖は携帯を耳に当てた。

「もしもし…………………………

………………

お忙しい所すみません。

…………………………………………

………………………………レスキネン教授。」