長男の帯広→札幌移動は2022年春だった

その年に
もう1つ大きなことが起きた

まさかの母親との別れだった


長文になります
お付き合い下さる方のみ読んでください






母親は私にとっていわゆる毒親で
自分の思うレールを歩かせようとしていて
私は支配されてる感をずっと持っていた
大嫌いだった

母親から逃げるように結婚して家を出ても
それからも母親の支配は続いていた
大嫌いだった

それでも母一人子一人
仲良くしたいとは思っていた




2020年 秋
友人からの助言

お母さんに
「ありがとう、大好き!って言ってみな
   それが出来たら何もかもうまくいくよ

何度も言おうとした
でもなかなか出来ない
この時も本当は言いたかった
でも言えなかった

2020年 大晦日 紅白を見ながら食事


この年末年始で何度も言おうとしたが

結局言えなかった





そして2022年 
2年半通った
イコットニコットでの出張鑑定
そろそろきつくてもう辞めようかと思うようになった頃
母親はもう毒親ではなく
私の心の支えとなる大きな存在になっていた


そんな矢先
2022年6月末

突然の母親への余命宣告
膵臓癌
あと半年だと言われた

立てなかった
泣き崩れた
運転も無理だと思った
母親の方がしっかりしていて
そのまま私の家に来てくれるというので
なんとか家まで運転することが出来た

それからそのまま
家で2人で暮らすことになった

そしてやっと言えた
何年もかけて
やっと伝えることが出来た

おかあさん、だぁいすき。
おかあさんの子供で生まれてよかった。
育ててくれてありがとう。
またおかあさんの子供で生まれるから
また産んでね。

何年もかけてやっと言えた

こんなことでもなければ
言えなかったかもしれないな


そして突然思い立って予約
翌日決行した日帰り温泉旅行






これが7月初め

その約1ヶ月後

9月いっぱいは普通に過ごせると言われていて

その普通でいられる期間

少しでも痛みを感じずに済むように

少しでも普通でいられる時間を長く出来るように

神経ブロックと放射線を2週間あてる

という緩和治療のため

2週間入院することになった


8月16日 入院

家ではあまり食欲がなく

あんまり食べれなかった母親は

病院の食事が美味しい美味しい、と喜んでて

看護師さんもみんな優しいんよ、と

ご機嫌だった




それが19日昼過ぎ

先生から電話があり

突然意思の疎通が出来なくなった、と


検査をしたら

1週間前に脳梗塞(膵臓癌からの)を起こした跡がある、と


こうなったらもってあと2週間と言われた




2週間経ったら幾分元気になって

退院して一緒に余生を過ごせるはずだった

一緒に旅行に行ったり

2人でおとうさんの墓じまいをして永代供養したり

2人で実家を片付けたりしよう、と計画していた


貧乏性の母親は

粒の大きいピオーネが好きで

でも1人じゃもったいないから買えない

と言っていた粒のデカいピオーネ

今年は2人でいっぱい食べようねって言ってた

母親の得意な白和えも

教えてもらっとかんといけんって言ってた


そして2人でゆっくり

今まで仲が悪かった分

仲良く暮らそうねって言っていた


長い年月かけて

やっと仲良しの親子になれたばかりだったのに




それが意思の疎通もできないまま

言葉も二度と交わすことも急にできなくなって

あと2週間だという


それも胆汁が逆流するか

肺炎になるか

どちらにしろ苦しい最期になる、と言われた




その2週間

毎日銀行から少しずつお金をおろし

葬儀屋さんやお坊さんと連絡をとったり

気がおかしくなりそうだった


坐骨神経痛がでて座ることさえ出来なくなり

鎮痛剤でなんとか動いてたら

今度は食べ物も受付けなくなり嘔吐




そんな中 支えてくれたのは
2人の息子だった

この2人がいなければ
きっと私は乗り越えられなかった

それをわかっていたのか

母親は2週間経っても何も起きず
むしろ経過は安定して
何もわからない人ではあるが
穏やかな状態になった
先生にも初めてのケースだと言われた

このまま半年
もってくれるんじゃないかと思える程だった

だんだん私も落ち着いてきて
毎日病院に行くのが
心の栄養になっていた


何もわからない母親だが

それでも一緒の写真を残したかった


病室には

母親が好きな色の濃いピンクの花を

欠かさず飾った


あと2週間と言われて1ヶ月半

容態が急変し

モルヒネを打った


あと2〜5日くらいだと言われた


それから私は病院に寝泊まりした

家のことは次男がしてくれた

そして毎日次男が

昼くらいから夜まで

一緒に過ごしてくれた


生きてる人間は食べなきゃダメ


と言って

病院のレストランで毎日ランチを2人で食べて

時々15時のおやつでパフェも食べて

病室では

何も言わない宙を見つめている母親の傍で

2人でNetflixで映画を観た


いつ母親が逝っても

葬儀に備える体力と覚悟をつけなければ


そして5日後

もう今夜かな、という夜

ちゃんと寝なきゃいけない

寝てないとちゃんと見送れない

私は母親とずっと手を繋いで寝た

ずっとずっと繋いでいた

そして明け方

母親は静かに息を引き取っていた

私が目が覚めて

母親が亡くなっていることに気づいたのは

息を引き取っておそらく30分後くらいだったと思われる

手を繋いでいてよかった


母親と次男と3人で過ごした

準危篤になってからの5日間

その5日間は夢のような

穏やかで静かな時間が優しく流れていた

私にとって宝物のような5日間だった

その5日間は私に心と体の準備をさせてくれた


母親は最後まで

私のために頑張ってくれた

意識がなくなって それでもまだ

私のために頑張ってくれた


すごい人だった


父親に尽くし

母親(ばあちゃん)を助け

目の見えない耳の聞こえない弟を探し出して助け、見送り、

最後に離婚してお金がない私を助け、

そして余命宣告されてからもなお

しんどくてソファーに横になってると

ふと思い立ったように起きて

ここに寝てたら

おかあさんがいなくなった時に

あんたが

「ここにおかあさんが寝てたなあ」って思い出して泣いたらいけん!

そう言って

なるべく座ってるようにしていた


こんなになってからも

もう孫がいてもいいような年齢になった娘の心配をする


素晴らしい母親だった



2022年10月10日 逝去


人は亡くなった日に来世生まれるという


10月10日

人に合わせられない

また強い人で生まれるんだな笑


それでもまたおかあさんの子供で生まれてくるから

今度は最初から仲良しの親子で

ずっとずっと一緒に暮らそうね





2023年 秋

母親が好きだった干し柿

生まれて初めて作ってみた




49歳で病死した父

優しかった父

それから36年

ずっと一人暮らしだった母

私なんて離婚して次男が大学に出て

一人暮らしになってもうすぐ5年

寂しくてとても一人暮らしは向いてないと思うのに

母親は一人で家を守ってきた

おとうさんと建てたこの家を

ちゃんと守らんといけん

ずっと言ってたなあ





母親のアルバムから

葬儀屋さんが作ってくれた

これを見ると

私は愛されて大切にされて

貧乏でも一生懸命育ててくれたんだなあって

いつも涙が出る

ありがたくて涙が出る


私はとても幸せだ



尊敬する人は、と聞かれたら

迷わず

母親です

と答える








お客さまへ

しんどい時は急でも構いません。

その時がしんどくてたまらないんだもんね。

夜でも空いてればお話聞きますよ〜。

ストレス、即はずそう!