前回までのあらすじ。


夫と年長の長男の就学先について意見のすり合わせを行った。



6月某日、保育所で見学の申し込みをした、大阪府内の支援学校へ夫と向かった。


支援学校は、私が想像したより広かった。


生徒数も、一学年が普通学校のひとクラスほどの人数おり、クラスは5〜7人で編成、一学年3〜5クラスある。


ちなみに、年々入学者は増えているらしい。


こんなことを言うと、発達障害が増えている、環境破壊の影響で、親の教育が、母親の育児が、PM2.5の…とかしょうもないこと言う人がいっぱいいるのが死ぬほど嫌だといつも思っている。


私は、支援学校へのハードルが下がった、それは養護学校から名称が変更されたり、福祉への理解が広がったり、我が子のための最善の選択は、〈普通〉を強要することではないと親の思考が変わったりしたなどの要因があると考える。


先日テレビで、インクルーシブ教育について放送していたが、インクルージョンとは〈包摂〉〈包括〉の意味であるが、要は、普通学級に障害児を包摂しようというものだ。


その番組では、視覚障害児が普通学級で学んでいて、それはもちろん素晴らしいことだが、〈包摂〉は、障害者に健常者が歩幅を合わせることは意味しておらず、健常者が築いたシステムを障害者にも強いる…その番組でも、普通の教科書で勉強する児童と、点字のかなり分厚いテキストで勉強する視覚障害児が同じ教室で学んでいた。


どんなに包摂しようと、決して、健常児が点字のテキストで勉強することはない、これは効率の問題だろうが、効率を考えると、包摂よりも棲み分けた方が良い、障害児には障害児に効率的な学習方法があるはずだ。


だから、インクルージョンって素晴らしいよね、障害者も一般社会で〈受け入れ〉よう、我々の社会で生活〈させてあげよう〉という思想がインクルージョンの基礎の上に構造されているのなら、私は危険すぎると思っている。


(ベッドから落ちるぜ)



さて、話をまとめると、障害に対する理解の広がりは、障害者と健常者を分断したり、包摂したり、分類したり、統合したりする。


ただ、私たちは健常者の枠組みで生きていようが、障害者の枠組みで生きていようが、ひとりひとり異なる人間であり、枠組みに固執せず、それぞれの生き方をオーダーメイドで作り上げていく必要がある、そのためには、自己を知覚する、自分の一般的だと考えている考えが、一般的ではなく自分のいち考えに過ぎないと知ることだと、私は考えている。



そして、支援学校の教室も見学させてもらった。


子どもたちが授業を受けていたが、少人数に2、3人の先生が付いていて、やはりサポートが手厚いという印象だった。


時間割も見せていただいたが、大きく違うのは「生活」という授業があること、「生活科」ではなく、着替や手洗いの練習をする、まさに「生活」を学ぶことを目的としている。


また、「国語」「算数」は「文字・数字」、詳しくは聞いていないが、子どもの理解度に合わせて授業が行われるものと考えられる。


「理科」「社会」はないが、「音楽」「図工」はある。


1日のスケジュールとしては、午前1コマ、あるはい午前と午後に1コマずつ授業があり、ゆったりと時間割が組まれている印象だった。


ただ、普通学級では、1年生でも1日4コマか5コマ授業があることを考えると、普通学級と支援学校ではかなり学習面で差がでるだろうと、容易に想像できる。



トリイ・ヘイデン氏の「シーラという子」シリーズのどれかにあった言葉で(どの本だったかは失念した、言い訳をすると、十数年前に読んだのである)、『学校は、何も悪いことをしていないのに懲役刑に科せられるようなもの』というものがあり、私は大いに首を縦に振った。


長男に、45分間を1日4コマ座り続けること、周りに合わせて〈暗黙の〉ルールに沿って動くこと、友だちを作ること、グループを組むことを強いるのは、彼の心に劣等感を生み、自尊心を傷つけるのでは、と私は危惧している。


それが実現したとき、学校は懲役場になるのではないか、同じ時間を過ごすなら、わざわざ辛い場所で過ごすことはないのでは、と私は考えていた、だからこそ、支援学校で彼のレベルに合わせた過ごし方ができるのがベストな選択、あるいはひとつの選択肢であると考えていた。


しかし、普通学級と支援学校では、これほどまでに学習に差があることを知ると、迷いが生じた。


私は今、ある資格取得のために通信で勉強をしているのだが、この勉強に、法学部で学んだ考え方が非常に役に立っている。


恥ずかしながら、法学部を出たにも関わらず、全く関係ない職に就き、その上長い間フリーター系ワーキングプアを続けていた。


法律の勉強は私にとって難解であったし、社会に出て打ち拉がれた私には、あの4年間は海に薄氷を張っただけだと感じていた。


だが、その氷は意外と物が載るもので、私が考えていたよりも丈夫で厚みがあった。


つまり私が言いたいのは、勉強とは勉強したくなったときにとても役に立つ、無意味な経験など無いのだ。


だからこそ、長男に小学校1年生レベルでも、2年生レベルでも、そこまでの能力があるなら、能力があるところまで勉強してほしい。


勉強を諦めてしまったら、次に勉強したくなったときに、その海に氷を張るのはとてつもなく困難かもしれないのだ。



普通学級で劣等感を味わって辛い思いをさせたくない、生活能力を身に付けるのが第一、と考えるのも間違いではない。


だが、支援学校では、たった1年、2年で学習においてどれほどの差がついてしまうのか。


この問題の恐ろしいところは、どちらを選んでも正解も間違いも知るすべがないこと、そして、私たちの決断で、たった5歳の長男の一生を方向づけてしまう可能性があるということだ。



さらに、支援学校見学の前日、私の気持ちを揺さぶる出来事があった。


療育手帳の更新のための発達検査である…が、長くなったので次回とする。