長男、4歳の誕生日が近づく某日、保育所で半年に1回ほどのペースで行われている保育相談の日だった。


保育相談は、長男の1歳半検診の際、問題ありの彼に、市の職員が勧めてくれたのだが、保育所で継続的に心理士が検査と面談をしてくれるというので、2歳頃からお願いしている。



前回は半年以上前だったか、まだ小さかった次男を抱っこして面談した。


(その次男は1歳になり、体重は10キロを超えたことに、時の流れを感じる。ただし、彼は生後5ヶ月で10キロを超えていたのだが)


その時から、私は児童発達支援(療育)の利用を始め、療育手帳を申請、取得し、特別児童扶養手当を申請、認定を受けた。


蛇足だが、発達障害や自閉症に関する書籍もポツポツと読むようになった。


長男については、語彙が増え、要求を言葉で伝えることの利便性を多少理解し、クラスの友達になんとなく友情(シランケド!)を抱き、父や母に呼び掛けなどをするようになった。


外出先では“さほど”逃亡を図ることがなくなってきたし、従業員出入口などの立入禁止区域に飛び込もうとするなどの問題行動が“多少”減った。


路上でも「とまれ!」と必死に叫ぶと、止まる、こともある。


(このように書くと私が長男を野放しにしているように取れるかもしれないが、私はいつも長男を野生動物よろしく逃げられないように手を握りしめているので、安心してほしい)



長男はこの半年あまりで、よく成長した。


育児に対する私の抱える困難は、すごく軽くなっていると感じている。



担当の心理士にも、彼の成長は感じてもらえたようで、彼とクラスの友達や先生との関り合いなどからそれが汲み取れたようだ。


心理士曰く、大人と関わって楽しいと思えると、これが子ども同士で関わって、一緒に遊んだりすることに繋がる。


だから、彼はひとり遊びが好きで得意だが、もっと日頃から彼と関わっていって、もっとみんなで遊べるようにしていくのが次の目標だ、と。



うーん、と思う。


いや、私の感情を素直に書くならば、「それはあなたの理想であって、彼の成長のプロセスで、必ず通過する必要があるのか、押し付けではないのか」ということだ。


当然、私は大人であるし、先方はプロの心理士(なんだそれ)であるので、黙ってウンウンと頷いたのだが。


別に、私は、彼を定型発達児にしたいと思っているわけではないし、私の好きな彼は自閉症であることは不可分の関係であると思っている。


竹中先生の著書『「自閉症」の時代』でも、自閉症と定型発達は同じ線上にあるわけではない、と書かれていた。


定型発達児では、1人遊び→集団遊びへの転換がスタンダードなのだろうが、それを自閉症児に「しなければならない」と意識を植え込むことは、正しいのか。


もちろん、やりたいことだけをやって社会で生きることは極めて難しい。(私がそれだけのお金を彼に遺せたら別であるが)


しかし、やりたくないことをできるだけ避けて生きるのことは悪なのか。


いやそもそも、集団遊びをしましょうね、なんて、定型発達児をベースに育児書が作られているからそうなっているだけであって、もし社会が自閉症児だけで構成されているなら、そんなことは必須とされないはずだ。


ただし、長男がそれを求めるのであれば、「皆のやり方」に馴染めるよう、当然サポートすべきだが。


(我ながら皮肉っぽい表現だと思う、これは、私自身がひとりで遊ぶ方がずっと好きだからだ。今でも私には友達がいない)



少し押し付けがま…仕事熱心な心理士と話していて、後にこのように感じた。


私は聞いてすぐレスポンスするのが苦手だが、聞いたことは覚えているので、後になってぐるぐると考え込んでしまう性質である。



ともあれ、彼を見守ってくれる人が多いことは、彼にとって(私にとっても)財産である。


冬がそっと歩み寄る、某日のことだった。