浅井健一&THE INTERCHANGEKILLSの「TOO BLUE」を聞くたびに、長男のことを思う。


私は、ベンジーこと浅井健一さんが好きで堪らないので、いつも彼の歌に私の人生を投影するという、めちゃめちゃ気持ち悪い作業に耽っている。


(じゃあやめる? 絶対やめない)


「TOO BLUE」は、アルバム「Caramel Guerrilla」に収録されている曲で(シングルも出ている)、ベンジーらしいドライブや旅の曲なのだが、曲終盤がなんとも意味深い。



「誰も知らない池がある


めちゃめちゃブルーで透明」



あえて解説すると、タイトルの「TOO BLUE」は、「青過ぎる」ではなく、「めちゃめちゃブルー」と訳すのが正しいとわかる。


さすがベンジー。



(ベンジーの歌詞はチャーミングだ。PONTIACの「Mr.Fat」の「めちゃんこ」や、KILLSの「Fried Bird」の「お子ちゃまランチ」など。ニヤリとしながら聞くのだが、特にSHERBETSの「LADY NEDY」の「手中の中」は衝撃的だった)



「ずっと前に見つけたんだ


鏡のような水面


この地球(ほし)がくれたプレゼント


ちゃんと受け取らなくちゃ悪いぜ


この地球に悪いぜ」



この部分、めちゃめちゃブルーの池が、長男だとしたら。


自閉スペクトラム症の長男の母親になったということは、何か試練であるとか、報いであるとか、乗り越えるべき壁であるとか、人生の義務や仕事であるとか、そのように考えたことは何度もある。


しかし、もし長男が自閉症、もしくは自閉症の長男(何が違うのかと聞かれれば、自閉症が彼のひとつの要素なのか、彼全体を構成する不可分な物なのか…説明ができそうにないので割愛する)を授かったのが、本当はネガティブな事情でないならば。


彼は「めちゃめちゃブルーで透明な池」で、試練だ報いだ障害者だと、彼を〈まとも〉な大人にせねばという思いばかりに腐心していては、「この地球がくれたプレゼント」であるのに、ちゃんと受け取ってないのではないか。


もっと明るい気持ちで、楽しい気持ちで、特別なものを特別に貰った嬉しい気持ちで。


そのような気持ちで長男を受け取らなければ、誰かに(神様とか地球とかに)悪い。




結論としては、長男が自閉症であるこの事実と縁に神様や地球に「ありがとう」って、ちゃんと言おうと思う。


今は手放しで言えない、いつか心の底から言えるよう、努力をする。