子どもの時分の遠足の時、母が作る弁当が何よりも楽しみだった。

母の弁当はなんでも美味しい。

ハンバーグでも、唐揚げでも、エビフライでも。

しかし、弁当を食べるまで、絶対に中身を知りたくなかった。

中身が何であるかに関わらず美味しいのだから、知る必要はない。

その楽しみを直前までとっておき、期待値を最大限まで向上させ、弁当の蓋を開けた瞬間、これから噛み締める幸せを確認するのだ。


前置きが長くなったが、同様の道理で、私は妊娠中、胎児の性別を聞かなかった。

男でも女でも、我が子たるもの、かわいいに違いない。

どうせなら十月十日、男なのか女なのか、さまざまなシミュレーションを頭のなかで繰り広げられる素晴らしい時間を堪能するのもひとつの手。

夫は、私ほどの偏屈ではないので、性別を知りたくないわけではなかったようだが、私の意向を尊重してくれた。


さて、そうなると一番の問題が浮上する。

名付けである。

私は、夫婦で、出産前に男も女も案を出しておけば良いと考えていた。

しかし、夫が言うには「性別が分からないのに名前は付けられない」。

…前言撤回。夫も偏屈である。

ここは、夫の意見を尊重し、名付けについて、出産までお互いに話すことはなかった。


私は長男を帝王切開で出産。
大部屋で、経膣分娩で順調に退院していく親子を唇を噛み締めて見送りながら(4床の大部屋で5組くらいは見送った。計算が合わない)、やっと自らも退院の日を迎えた。

出生届提出期限まで、あと6日と迫っていた。

実は、初めて名前の話をしたのは、退院したその日だった。

夫とふたりで、それぞれ5つほど、案(ひらがな)を書き出す。

名付けの路線が違っていたにも関わらず、ひとつ、同じ名前があった。

そこからは話が早い。

漢字を決め、意味合いを考え、次の日には出生届を提出した。

以前何かで、「名前は子どもが天から持ってくる」という内容を読んだ。

まさに、顔を見て夫婦でこれという名前が脳裏に宿ったということは、我々が付けたのではなく、息子が持ってきた名前を我々が受け取っただけだったのかもしれない。

突然のスピリチュアルだが、残念ながらそちらに対するアンテナは感度が悪く、あまり役に立っていない。


名付けの漢字の意味だが、「勉強して技術や能力を身につけ伸ばして、自分で食っていけ」というものである。

発達障害の長男に対して、なんとも皮肉っぽいのか、いや、きっと社会性がマジョリティと異なっていて、対人関係や信頼関係の構築で苦労を強いられる長男にとって、身を助くスキルを伸ばし、揺るぎ無いもので他者から信用を得る道を目指せという意味では、なんともぴったりな気もする。

もしかすると、そのあたりも長男が選んだのか。


そういえば、SHERBETSの「760」では、

「両親にもらった名前は空に返す」(原文はアルファベット表記)

とベンジーが歌っているのを思い出した。

逆の発想。私の方がね。ベンジーはいつでも正しい。



長男の手を引いて保育所から降所していると、別のクラスの子どもたちからも、「○君バイバイ」と手を振ってくれていた。

ろくに発語もない(おそらく友達の名前も呼べない)長男が、名前を呼ばれて可愛がられているというのは、母として、これほど嬉しいことはない。