1. はじめに:
嘆くより、今わが家ができること
学校に通っていれば当たり前にある
「遠足」や「社会見学」

私は、五教科の勉強と同じくらい、こうした「課外授業」で世の中の仕組みを知る機会は大切だと思っています。
不登校になると、
どうしてもそうした機会が減ってしまうことに、残念だなと思っていました。
でも、嘆いていても時間は過ぎていくだけ。
「だったら、わが家なりの社会見学や家庭科、体育を、私が企画してみようかな?」
そう視点を切り替えたところから、
「自習型・社会見学、副教科学習」が始まりました。
2. きっかけ:
息子の「物足りなさ」と、私の小さな「疑念」
最初の行き先に「裁判所」を選んだのには、
2つの理由があります。
1つは、
息子がまだ登校していた中学時代のこと。
学校の社会見学で裁判所へ行きましたが、
当時の彼は「期待していたものと違った」と少し物足りなさを感じたと話していました。
学校の見学は、
・無人の法廷を見たりビデオを観たりするのが中心。
・集団行動の安全や施設の都合を考えれば、先生方も受け入れ側も、それが精一杯だったはずです。
でも、息子はどこかで
「本物の空気」を感じたかった、期待していたのかと思います。
もう1つは、私のちょっとした体験。
・仕事を通じて、ある弁護士さんの
「(驚くほど!)自由で人間味あふれる言動」を目撃し、
「弁護士=完璧な人格者」という私の勝手なイメージが崩れたんです(笑)。
マイルドに表現してます、、、![]()
「実際の裁判って、どんな人たちがどんな風に進めているんだろう?」
この疑問を息子に話すと、彼も興味を持ってくれました。
3. 当日の道中:
平日の地下鉄で感じた「時代の変化」
いざ、裁判所へ。
道中の地下鉄で、
息子は「中学生がなんで平日に電車に乗ってるの?って変な目で見られないかな、、、」と、少し気にしていました。
けれど、実際は誰も気にしていません。
仕事に急ぐ人々、そしてコロナ明けで急増した多くの外国人観光客。
多様な人が行き交う今、
「平日の昼間に子供が歩いていること」への違和感は、私たちが思う以上に薄れているのかもしれません。
「学生は学校にいる時間」という固定観念が強かった時代から、少しずつ変わってきていることを肌で感じました。
4. 潜入:
扉の向こうにある「生」の空気
裁判所のHPには「傍聴は自由」とあります。

でも、いざ入り口に立つと
「興味本位で入っていいのかな」と、親の私の方が怖気づいてしまいました。
しかし、一歩入ればそこには多様な日常がありました。
学生グループ、老夫婦、熱心にメモを取る人、記者さん……。
テレビで見かけた事のある、有名な弁護士さんが、傍聴人に声をかけている場面にも遭遇しました
(その裁判は人気で、傍聴券がすでに終了していて入れませんでした)
「どの裁判を見ればいいか分からないけれど、まずは一歩踏み出してみよう」
開廷表を頼りに、私たちはある法廷の扉をそっと開けました。
5. 衝撃の傍聴:
五感で知る「社会の厳しさ」
たまたま最初に入ったのは、殺人の刑事事件でした。
そこで目にしたのは、想像を遥かに超える重い現実です。
「生」の拘束:
手錠と腰縄で連れてこられる被告人の姿(※2026年からは衝立などで配慮される方針だそうです)
その光景に、言葉にできない重みを感じました。
対照的なやり取り:
淡々と論理的な検察官に対し、独特の口調で言葉を重ねる弁護士
(※あくまでその時の、私の主観です)
緻密なプロセス:
一つの判決に至るまで、どれほど長く忍耐強い月日が必要なのかを知りました。
意外な発見:
そんな緊迫感漂う場所で、
傍聴席の椅子が驚くほど座り心地の良い上質なものだったことも、不思議と印象に残っています。
6. 結び:
自分たちらしい「学び」の形
後日、息子はその事件の判決日にも、たった一人で足を運びました。
倍率の高い傍聴券抽選が当たり、
判決を聞くことが出来ました。
裁判長が被告人に放った言葉を直接聞いたそうです。
その言葉は、彼の心に深く、強く刻まれました。
教科書だけでは得られなかった、
「社会の厳しさと、人間という存在」を学ぶ、濃密な課外授業になりました。
これまでは
「学びは学校や塾が用意してくれるもの」という認識がどこかにありました。
もちろん、学校や塾のシステムは素晴らしいものです。
でも、もしその仕組みに合わなかった時は、
「自分たちで知恵を絞って、わが子に合った学びを探してもいいんだ」と思えるようになりました。
焦らず、比べることなく。
これからも「わが家らしい学び」を、ゆっくり見つけていければと思います。
最後に、裁判傍聴に関する情報は、投稿時点から変更されている場合や、個人の主観が含まれる可能性があります。実際に傍聴される際は、必ずご自身で最新の情報を裁判所のホームページなどでご確認ください。