母は術前抗がん剤を6月に始めているので、

父の容態が悪化したこの9月下旬には、4回は投与が終わっていたはずです。

当然、副作用の脱毛で髪の毛はほとんどない状態だったので、

家の中ではバンダナを巻き、

外出時は綿素材のつば広帽子を被って凌いでいました(夏場はウイッグだと暑いので。 私の経験から)。

考えたくはないけれど、

父の葬儀について調べたり準備すべき時が来ていたので、

まずは母のウイッグを購入。
何とか人前に出られる見た目に。

次に、私がこの年にして喪服セットを持っていなかったので、一式購入。

次はどこの葬儀屋さんが良いのか地元のケアマネさん達に聞いてまわり、見積もりを取り(今の住まいは両親が長く住んだ土地ではないので)、

少ない親戚に連絡を取り、面会の日程調整をし、

バタバタと数日が過ぎて行きました。

やるべきことを終えてからは、

朝から夕方まで施設に滞在し、父の傍で過ごしました。

改めて、沢山の管や酸素マスクなどもなく、皮下点滴1本だけが繋がっている父を見て、

これだけで4ヶ月生きているって、結構すごいことなのでは?

結構頑張っているのでは?

と、改めてその生命力に驚かされました。

その時はもう会話が出来る状態ではありませんでしたが、

父はもともと、自身で興した会社の社長をし、100人以上の従業員を束ねていた人で、

自信に満ち溢れ、時に傲慢で自己中心的で、

もの凄く負けず嫌いな人でした。

その性格のせいで、家庭内では言い争いや喧嘩が耐えなかったりもしました。

なので、私の思春期から父の晩年に至るまで、私と父の関係は良好とは言えませんでした。

ただ漠然と、

どちらかが死ぬ前までには、このモヤモヤを何とか出来たら…とは思っていました。


でも、ちょっと遅かった。

人間は、最期の瞬間まで、聴覚は残ると聞いていたので、

私は、返事を返せなくなった父に、今まで照れて言えなかったことを少しずつ話しました。

自己満足で一方的かもしれないけど、聴こえていると信じて。

親孝行出来なくてごめんなさい。

せめて最期の瞬間まで一緒にいるから。最期を必ず看取るから。

手を握りながら、何度も伝えました。

後編②へ。