*pixivに上げていたものを誤字等修正してこちらのブログに移したものです。「Anong」は「豪華な女性」という意味らしいですョ。可愛い人になっちゃったけどwww。

 

 

「King、まだ帰らないの?」
 そう声をかけられKingははっとして時計を覗き込んだ。腕のタグホイヤーは22時を少し過ぎようとしていた。
「もうこんな時間か」
 どうりでお腹も空くわけだ。紙コップのコーヒーはとっくに冷めてしまっている。Kingは冷えきったコーヒーを飲み干して、うーんと伸びをしながら声の主を振り返る。
「気が付かなかった。P‘Anong、あなたも残業?」
「私はもうとっくに終わっているわよ。食事をすませたから帰ろうと思ったら明かりが見えたから、きっとあなただろうと思って寄ってみただけ」
 アルトの声の持ち主は、肩にかかった長いストレートの黒髪を後ろに払いながらKingに歩み寄る。黒のシンプルなタイトなスーツとハイヒールが彼女のスタイルの良さを引き立ててより美しく見せている。開いた胸元もセクシーだ。
 綺麗な女性だな、とKingは思う。Anongは同じ広告代理店に勤める4年先輩だ。ひときわ美人であったことから入社当時から男子社員の注目の的だったらしいが、仕事ぶりが優秀過ぎて並みの社員達には今は高嶺の花だ。
「それって来週のプレゼンの資料?」
 デスクの端に腰を掛け山積みの書類に肘をついてパソコンを覗き込む。その拍子に彼女の髪がKingの頬を撫でる。ほのかに香る香水はローズ系だ。タイトなスカートから覗く綺麗な足に目が行かないよう気を配りながらマウスの操作に専念する。
「なかなか納得いかなくて。まあどこがやっても内容的にはほとんど差が無いと思うし、あとはプレゼンの仕方にかかっている、とは思うんだけど。」
「入社3年目のあんたがプレゼン任されたんだから自信持てば?この私を差し置いて、よ?」
「ほんとそうですよね。何で俺なんですかね」
 頭を掻きながら素直に謝るKingに、ちょっと嫌味を言ってみた自分が嫌な奴みたいじゃん、とAnongは小さくため息をつく。
 今回のクライアントはインターネットでの広告が希望で、特に若者向けサイトへの掲載のため、斬新かつ大胆な発想力が欲しいということだった。斬新な発想とアイディア。自分には持ち合わせていないものだとAnongは思う。データ分析やデジタルマーケティングはKingの得意分野だ。社内で彼に勝る者はいない。柔軟な考えと対応力、頭の切れるKingが新人ながら指名されるのは当然至極なことだった。
「ところでさ、あんたはこのあとデートでもあるの?」
「えっ、ありませんよ。何ですか、急に。P‘のほうこそはどうなんです?もてるでしょ?」
「はあぁ?彼氏なんてここ最近はいたことないわ。だいたいこの会社の男どもを始め、私より仕事のできる男なんて周りにいないのよ!どいつもこいつも軽薄だし、軟弱だし!」
 うわぁ、何か地雷を踏んだかな。有能なあなたと比べられたら男性達が気の毒だよ。
 Kingのキーボードを叩く手もフリーズする。憤怒している美しい横顔を横目で見つつ、そっとため息を飲み込む。
「厳しいなぁ。あなたのお眼鏡にかなう男なんているんですか?」
「・・・・。いなくはないけど・・・」
 Anongはチラッとパソコンの画面を見つめている年下の男を見やる。
「へえ!ほんとですか?どんな人なんですか?うちの会社の人ですか?」
「まあそうだけど・・・さ。仕事ができるのはもちろん、謙虚で、イケメンっていうかむしろ可愛い?美人?みたいな?」
 マジで!?興味津々でAnongを見上げると、もじもじと指で髪をくるくる巻いている。そんな様子がいつもの凛とした彼女と違って何だか愛らしい。その彼のことが好きなんだなと思う。
 しかし、うちの社員でそんな人いたか?可愛くて美人・・・?男だよな?
「そ、それでさ、プレゼン終わったら飲みにいかない?ええっと、ご苦労さん会?ってことでさ。いいバーを見つけたのよ。今度二人で・・・」
「ええ、俺のプレゼンが通る、通らないは別にしてこの仕事が終わったら行きましょうよ。みんなも誘って・・・」
 バン!!といきなりデスクを叩かれ、続きを言おうと微笑みかけたKingの顔が引きつる。
「さあ仕事終わって!いつまでもグダグダやってるんじゃないわよ!警備員さんも閉館出来ないから困ってるじゃない!帰るわよ!」
「ええっ?ど、どうしたんですか?」
 急に真っ赤になって怒り出した美女にKingは訳が分からず困惑する。
「何でもないわよ!~~ほんとあんたってさ!」
 Kingが若くて仕事が出来るのに先輩達にやっかまれない理由の一つに、恋愛ごとに置いて時々発動するこの超鈍感さがある。美形でもてるのに、それに気づきもしないなんて何てもったいない!と反感どころか何故か同情を買ってしまうのである。そんな恋愛音痴なところもAnongの気に入っているところなのだったが。
 それにしたって、どんだけ鈍いのよ!この私の色仕掛けも通じないし!ほんとバカ!
 ゲイかとも思ったが、男にもなびく様子も見せない。恋愛に興味が無いのか。
 ご立腹な美女を横目に何が彼女の逆鱗に触れたのか分らぬまま、Kingは渋々パソコンをシャットダウンした。
 オフィスの外は煌びやかなネオンを映し出していた。そうか。社会人になって3年になるのか、と改めてKingは思う。彼と離れて過ごした季節も3度を迎えるのか。あの外国に血が入った彫刻のような端正な顔を思い浮かべる。
「Ram・・・」
 彼ももう就職しているはずだ。元気だろうか。
 立ち止まってしまったKingにどうしたの?と言うように小首をかしげ心配げにAnongが振り返る。
「何でもありません」
 そう、何でもない。考えたってしょうがない事なのだ。どうしたって戻れない過去を振り切るようにKingは歩き出した。


 プレゼンを2週間後に控えた先週末、Kingは久しぶりに旧友と食事をするためレストランに来ていた。金曜ということもあって席はいっぱいだ。人気店だから予約を取るの大変だったんだぞ、と言っていたが、こんなおしゃれなレストランは恋人と来ればいいのにと思う。コップの淵を流れる雫を頬杖をついて、ぼうっと眺めながら指ですくっていると上から声がした。
「すまん、待たせたな。先に飲んでてくれて良かったのに」
 遅れてやって来た男は周囲の人々の視線を一身に集めて爽やかに声を掛けて来る。仕事帰りのビジネススーツ姿だがそれすらもカッコ良く着こなす彼は、そんな熱視線をまるで気に留める様子もない。自分の容姿に絶対の自信の持ち主。高い身長にすらりとした体躯、甘いマスクは今も健在だ。さすがもと大学のMoonだな、とKingは感心する。
「それじゃ寂しいでしょ。せっかく久しぶりの再会なんだから一緒に乾杯しなきゃね。まあ座りなよ、Bohn」
 ああ、そうだなとウェイターに片手を軽く上げて呼ぶ仕草も嫌味にならない。Bohnはメニューもろくに見ずにこれとこれ、おまえもこれでいいだろ?ここのお勧めなんだ、と勝手に注文していく。
「それにしてもさ、お前ほんと目立つよね。さっきから女性達の視線が痛い」
 頬を上気させてうるんだ瞳で見つめて来るのは独身女性だけではなさそうだ。彼氏連れの女性陣も熱い視線を投げかけてくる。色男はさり気無く女性陣に微笑みかけている。彼氏達に殴られなきゃいいけど。
「いいのか?そんなところDuenに見られたら怒られるぞ」
 DuenはBohnの一つ下の医学部の恋人だ。
「大丈夫だ。俺らは大学のころと違ってお互いを信頼している。こんなことじゃ壊れやしないよ」
 大学時代は喧嘩を繰り返してばかりいた二人だが、色々乗り越えて今や同棲中の熱々のバカップル、もとい相思相愛のカップルらしい。あの女ったらしのBohnがこんなに一途とは思わなかった。
「それにさ、見られているのは俺だけじゃないだろ」
 運ばれてきたワインで乾杯ながらBohnが意味深に笑う。
「?」
「視線を集めているのはお前もだろ。一人でいるとき声を掛けられなかったか?」
「うん?まあ何人かに一緒にどうか、って言われたけど、友達来るからって断ったかな」
 そう言えばと思い返す。ぼんやりBohnを待っていると何人かの男女に声を掛けられたっけ。
「一人でぼーっとしてたから、デートをすっぽかされた可哀そうな男に見えたんだろ」
「・・・・・・。お前ってほんとにそう言うことには鈍いよな。よく今まで何事もなく来られたよな」
 心配になるわ、とややあきれ気味に言われたKingは意味が分からず、首を傾げる。
 ほっそりしたシルエットにすっきりとした顔立ち。艶やかな長めの前髪をかき上げる指は長くて美しい。Bohnとはまた違うKingの魅力は淑女達はもとより紳士達をも魅了する。淡いピンクのシャツに白いカーディガン、ベージュのパンツといったシンプルないで立ちだが、それがかえって彼を引き立てる。
 綺麗な奴。本人は全く自分の魅力に全く気づいていないところがこいつらしいか、とBohnは思う。まあ自分よりは劣るけど。
「お前また痩せたか?」
「そうか?ここのところ忙しかったから適当に食べてたかも」
 そう指摘されてワイシャツの上から体をさすってみるが自分ではよく分からない。確かにベルトの穴が一つ分変わったかもしれない。左腕のタグホイヤーも手首で回っている。
 ちょうど料理が運ばれてきて二人はしばし極上の料理を堪能する。さすが評判通り旨い。仕事の話や大学の頃の話でひとしきり盛り上がった頃Bohnは唐突に言ってきた。
「あいつから連絡来たか?」
 フォークを口に運びかけたKingの手が止まる。
「あいつって?」
「とぼけるなよ。あいつはあいつだろ。俺の天敵のボクサーやろう」
 肉にフォークを突き刺しながら少し怒ったようにBohnが言う。Duenと付き合う事を認めるかわりに、彼の友人達から試験として色々やらされていた。Ramとはボクシングの試合だったが、勝てなかったことを未だに根に持っているらしい。懐かしい大学時代の思い出だ。
「・・・・・・。来てないよ。何で?」
 ワインに映りこんだ自分の顔が揺れてゆがんだのが見える。来るわけ無いじゃないか、何年たっていると思ってる?
 3年生になっていたRamが1年間の留学のためアメリカに旅立って間もなく、Kingはスマホを壊した。手から落ちたそれは派手に壊れて、しかも車道に転がって車に轢かれるというおまけまでついた。撮りためていた写真やら友達のアドレスやらも道連れに永遠の眠りについてしまったのだ。
 Ramとの思い出の写真も多くはないがあった。バスの中でRamのタトゥーと撮った写真、キャンプでの花冠のツーショット。どれもとても大事なものだったのに。喪失感とともに分かったことは、自分のRamに対する思いの大きさだった。留学なんてほんとは行って欲しくなかった。ずっとそばにいて欲しいなんて、恋人でもないのに言える権利なんて無い。
 すごく迷ったが、新しくスマホを買い替える際に番号を新しくして買い替えた。ごく親しい人にだけ新しくなった番号とアドレスを教えた。無くしたRamの番号は、彼の親友のDuenやRamの弟にでも聞けばすぐに分かることだったが、Kingはそれが出来なかった。Ramが留学から帰ったら、いや今度連絡をとったら、あふれ出てしまいそうな思いを止められないかも知れない。この思いがいつかRamの将来を潰す気がした。そんなことは絶対に避けなければならない。キャンプのキスの時のように酔っぱらいの戯言では済まされない。
 父親の不倫で傷ついているのに、信頼している先輩にまで裏切られるなんてあってはいけない。手放してやれるのは今しかない。Ramから離れることしかKingには選べなかったのだ。
 だがそれも杞憂に終わる。Ramの方から探そうと思えば探せたはずの自分の連絡先に何の連絡も無かったということは、Ramにとって自分はそれくらいの相手。ただの親切な先輩だった、というだけのことだったのだ。望んだこととは裏腹に、心のどこかでRamが探してくれるのではないかと期待していた自分がいて、ひどく情けなかった。結局自分が傷付きたくなくて、逃げただけだったのだ。
 黙り込んでしまったKingにBohnは何か言いたげだったが、
「いや、まあいいさ。それよりちゃんと食えよ。それ以上痩せるなよな」 
 心配になるわ。本日2度目の心配をいただきKingは苦笑する。ぶっきらぼうだが友達思いのいい奴なのだ。
 窓から見える澄み切った夜空を見ながら思う。この思いはいつか昇華するのだろうか。今日の星空のように天まで昇って散らばって、消えてしまえばいいのに。
 あまり食欲はなかったが、Kingは出された料理を無理やり腹に収めた。


 プレゼンを終えた翌週、出勤したKingは周りの視線を集めて閉口していた。
「どうしたの、その頭!失恋でもした?」
「・・・P‘Anong、カラーリングなんて誰でもやってることじゃないですか。しかもそんなに派手な色でもないでしょ。社会人として常識の範囲内ですよ。それに失恋で染めますか?」
 朝から何度目かの問いかけに辟易する。気分転換に髪の色を変えてみただけなのに、失恋って。ピンクや紫にしたっていうのならいざ知らず、少し明るめの栗色にしただけだ。そんなに変ですか?返事も尖りがちだ。
「ああ、いやいや、すごく良く似合ってるのよ。真面目なんたが珍しいな、と思っただけ。さっきも隣の部署の女子達がN‘Kingは色気が増して美人になったって噂してたし」
 気になるフレーズを問いただそうとしたが、突然の陽気な声に阻まれた。
「やあ、おはようKing、どうしたのその髪!いいね!似合ってるよ」
「あ、ありがとうございますP‘Pete」
 朝からテンション高めの彼はAnongと同期で営業の期待のエースだ。Bohnと同じくらいの高身長、ゆるくウェーブのかかった髪とレイバンのメガネ、モスグリーンのジャケットにグレーのスラックスはやや営業的ではないが、彼が着こなすと嫌味にならずよく似合っている。もちろんなかなかのハンサムだ。仕事もできるし彼がAnongの思い人かと思ったが、カッコいいが可愛くはないかな。Peteは新人のころから何かと気にかけてくれる気さくな先輩だ。
「今日、昼飯一緒にどお?奢るよ」
「ありがとうございます。でもいいんですか?」
「ああ、もちろん!じゃあまた昼に」
 Kingの頭をぽんぽんと軽く撫でて鼻歌交じりで忙しく出かけていく。キラキラした元気な後姿を見送っていると、
「あんたさぁ、あんまり気安く触らせてるんじゃないわよ。誤解させるよ?」
 同じようにPeteが去ったほうを見ながら、Anongは少し怒り気味にKingに向かって言う。
「?誤解って?何を?P‘Peteのスキンシップの多さは最初からだし、皆にもそうでしょ?」
 あんたにだけです!ほんとに鈍感というか初心と言うか。危機感の無さにAnongは呆れてしまう。自分もそうだが報われない相手に同情してしまう。
「そう言えば今日から、あんたがプレゼンしたクライアント先から一人、社員が出向して来るんだって。何か聞いてる?」
「いいえ。クライアントから?何でまた」
「うちの案を採用したいから、新人も一緒に勉強させて欲しいって」
「え?それって・・・」
「良かったね。忙しくなるわよ」
 ああ、そうか・・・。俺のプレゼンが・・・。でも随分急だな、と思っているとAnongに脇を肘でつつかれた。
「来たわよ」
 立ち上がって振り返る。部長が連れてきた人物。そこに立っていたのは西洋の彫像かと思わせる端正な顔立ち、陶器のような白い肌、厚い胸板。首には・・・。
「えっ?」
 ドクンと心臓が音を立てる。それは紛れもなく会ってはいけない、だが会いたくて仕方なくて胸を焦がしたその人だった。
 まさか嘘だろ?
「・・・Ram」
 部長が紹介している言葉も全く耳に入ってこない。ただ彼だけが暗闇にスポットライトが当たっているようにそこだけ浮かびあがって見える。鋼のように打つ自分の鼓動がうるさくて気持ちが悪い。
「すごいイケメン!タトゥーがセクシーじゃない!・・・・・?Kingどうかした?」
 いぶかし気なAnongの声に、はっと我に返る。下を向いて呼吸を整えようとした時、誰かが自分の前に立った。黒の革靴が視界に入る。鼓動が更に高鳴る。吐きそうだ。視線を上げることが出来ないでいると、
「P‘King、お久しぶりです」
 周りがざわついたのが分かる。だめだ、ここは職場だ。平静を装わなければならない。Kingは無理やり視線を上げる。そこには3年前に別れたきりのRamが見慣れないスーツ姿で立っていた。
「ああ、クライアントから来る社員って君だったの。驚いたよ。ほんとに久しぶりだね。元気にしてた?」
 普通に笑えていたと思う。上出来だと褒めてくれ。
「はい、P’Kingもお元気そうで。今日からよろしくお願いします」
 こちらこそ、と言うにより先に部長が衝撃的な言葉を吐いた。
「彼の身の回りの世話もKing君に頼むよ。じゃああとはよろしくね」
「ええ!? ちょっと待っ・・・」
 続きの言葉を待たずに部長はそそくさと行ってしまった。
 これは何の冗談だ?そりゃあ自分の案が採用されたんだから仕事が一緒なのは分かる。だけど身の回りのお世話って。普通はプレゼンが採用されたご褒美をくれるものじゃないのか?罰ゲームかよ。呆然とKingは独り言ちる。
「P‘King?」
 ああっ、もうしっかりしろ。彼は大事なクライアント先のゲストだ。単なる大学の後輩だ。
「ごめん、急だったからびっくりして。社内を案内するからちょっと待っててくれる?」
 Ramは黙って頷いて出ていく。頑張って張り付けた笑顔も力を抜いた瞬間、剥げ落ちてしまいそうだ。背中を嫌な汗が伝う。
「何?知り合いだったの?」
「ああ、ええ、まあ・・・。大学の1年後輩です」
「ふーん?後輩ね・・・・・」
 Ramに気を取られ、不審そうに見つめるAnongに気付かなかったKingは、女性の勘は恐ろしく鋭いのだ、と後々身をもって知ることとなる。
「ごめん、待たせたね。社員証はもらってるよね、って何その荷物!」
 駆け付けたKingが見たのは、スーツケースとボストンバック2個を抱えて立っているRamの姿だった。


「会社が用意してくれるはずのホテルが手違いで予約されていなかったって?」
 Ramの家からKingの会社まで距離があるためホテルを借りることになっていたらしい。今は観光シーズンで今日はどこも予約でいっぱいで空き部屋も無かったという。
「どうするつもり?」
 Kingは何だか嫌な予感にさいなまれていた。
「その辺の公園で野宿でもしようかと。1泊くらいなら大丈夫です」
 更なる嫌な予感にため息をつく。
「1泊で済むならいいけど・・・。いやいや1泊だって、いくら君が屈強なボクサーだからって危ないよ」
「しかし・・・」
 いくら取引先の社員とはいえ他のクライアントの情報を抱える社内に泊まるわけにもいかない。頭の中で警鐘が鳴り響く。絶対ダメだ。絶対後悔する。だけど・・・。
「・・・・・・・うちに来る?」
 言ってしまった・・・。心の中でKingは頭を抱える。
「はい、ありがとうございます」
 嬉しそうに笑みを浮かべる端正な顔が恨めしい。Kingは困っている人間を放ってはおけないのだ。ましてやRamとなれば尚のこと。


「どうしたの?さっきからため息ついて」
「すみませんP‘Pete。何だか今日は忙しくて」
 朝から何度ため息をついたことか。自分のお節介に呆れるばかりだ。だが、今はP’Peteと約束したランチ中だ。マナー違反をKingは反省する。
「クライアントからの出向社員の面倒までみるんだって?なかなかのハンサム君らしいね。女子社員が騒いでいたよ」
 まあRamなら女の子の騒がられるだろうな。あの通りの端正な顔立ち、無口で無愛想だがほんとは優しいし。体も一回り逞しくなって、下ろした前髪も学生の頃よりカッコ良さを増していた。さっきも女子社員にランチに誘われていた。Kingも昼食に誘おうかと思っていたがやめておいた。放っておいても女の子達が面倒を見てくれるだろう。そう思ったが少し胸がざわつく。Kingはこの得体のしれないザラザラした感情が何であるか分かっていて、とても嫌だと思った。
「あ~ら、お二人さん、私もご一緒していいかしら?もちろん私にも奢ってくれるんでしょう?Ai‘Pete?」
「P‘Anong、今から食事ですか?隣にどうぞ」
 ありがとうKing、と言って彼の隣に座ろうとしたAnongの腕を掴んでPeteが耳打ちをする。
「Anong、お前邪魔しにきたのか?奢らないぞ!他行け、席空いてるだろ」
「あら、人聞きの悪い。Kingの貞操を守りに来ただけよ。あんたこそ他に行きなさいよ、図々しい」
 ヒソヒソ声で言い合いをしていると、
「何内緒話してるんですか?お二人ほんと仲いいですね」
 屈託のない笑顔を向けられて、先輩二人は思わずキュンとしてしまう。
「あはは、仲良い・・・のかな?同期だしね。ああ、それにしてもいい髪の色だね。前の黒髪も綺麗で素敵だったけど」
「そうですか?俺はウェーブのかかった髪に憧れるなぁ。P‘Peteの髪型かっこいいですよね」
「ほんと、Kingの髪はまっすぐで綺麗だね」
 Peteが手を伸ばして髪に触る。Kingはくすぐったそうに笑っている。
 こいつKingが鈍いのをいいことにお触りとは!
 Anongが何か言おうとしたその時、何者かがドンと机に書類を置きKingとの間に割り込んで来た。Anongはのけ反り、Peteは驚いて手を離す。
「Ram?びっくりした。どうしたの?」
 Ramは髪に触れていた人物とKingの隣に座っている美女を一瞥し、形式的にお辞儀をした。
「P’King探しましたよ。どうして俺も誘ってくれなかったんですか?」
「えっ、でも君女の子達に誘われてただろ?邪魔しちゃ悪いと思ってさ」
「俺としては邪魔をして欲しかったんですが」
「え?でも・・・」
 確かに騒々しい女の子は苦手だろうけど、そんなことしたら女性陣にタコ殴りにされてしまうじゃないか。勘弁してほしい。
「それより仕事のことで聞きたいことがあるんです。席を変えませんか?」
 Kingの腕を掴んで立たせて強引に引っ張っていこうとする。
「えっ、ちょっと待ってよ、今すぐか?」
「今すぐです」
「おいおい、まだコーヒーが残ってるぞ・・・」
「そうよ、もう少しゆっくり話を・・・」
「・・・・・・・」
「わかったよ、行くよ。ちょっと引っ張るなよ、あっ、P‘ごちそうさまでした、っておいRamってば」
 突然Kingをさらわれ、あまつさえ無言の圧を掛けられた二人は、ハーフのイケメンに犬のように引っ張られていく後輩社員の後姿を呆然と見送った。


「もう、痛いよ、Ai‘Ningってば。先輩にも失礼だろ」
「・・・懐かしいですね、その呼び方」
「ああ、さすがに職場じゃ呼べないでしょ?」
 つい自分がRamに付けたあだ名で呼んでしまったことが気恥ずかしい。中庭のテラスのベンチに座らされたKingは、まだ掴まれたままの腕が気になって仕方がない。掴まれたところが熱い。早く離して欲しい。横目でちらりとRamを見るとこちらを見て微笑んでいる。何でそんなに優しく見つめるのだろう。動揺を悟られまいと顔を伏せる。
「それにしても相変わらず誰にでも気安く触れさせていますね。無自覚で人を惑わすのも悪い癖です」
「え?」
 顔を上げたKingの髪にRamの指が触れてくる。
「最初誰だか分かりませんでした。綺麗な色ですね。とてもあなたに似合ってます」
 Kingは思わず首をすくめてしまう。何でだろう、先輩に触れられても何ともないのに。体が強張って身動きが取れない。Ramの顔を見ることも出来ない。
「それより聞きたいことって?」
「何もありませんよ。悪い虫を追い払っただけです」
「はぁ?」
「P’King、少し痩せましたか?」
 掴んだ腕が以前より一回り細いことに気付いて、Ramは眉をしかめる。
 この間Bohnにも言われたな。そんなに分かるのかな、とKingが思い出していると、しばらく何か考え込んでいたRamが言った。
「ご飯に行きましょう。俺、昼食まだなんです」
「は?俺はもう食べたよ。女の子と行ってきなよ。だからもう離せって」
「俺はあなたと行きたいです。それにあなたはもう少し食べたほうがいいです」
「えええっ?もう無理だって!」
 有無を言わさず掴まれたままの腕を再度引っ張っていかれる。以前もこんなことがあったっけ。このRamの強引さは昔と変わらない。あの頃に、何も考えないで楽しく笑っていられたあの日々に、戻れたらどんなにいいだろう。以前より逞しくなったRamの背中は、こんなに近くにあるのに今のKingにはあまりに遠くて切なかった。


「だからさ、それだと流れ的におかしいでしょ」
「そんなことはありません。こちらの方が良いと思います」
「まったく、君ってほんと昔から頑固だよね」
「それはあなたも同じです」
 パソコンに向かって説明しているKingと彼の肩越しに覗き込んでいるRam。言い合いしている姿も絵になって良い、とこっそり覗きに来る女子社員も少なくない。
「あいつ、威嚇するように俺達を睨みつけたくせに、Kingにはあんな優しい顔ができるんだな」
 Peteは少し離れた席で苦虫を潰したような顔で呟いた。
 ほんと君ってば強情、と笑っているKingをRamは画面から視線を移して優しく見つめている。
「あのハーフ君、絶対Kingに気があるよな。それにしても、全く見た目も性格も正反対な感じの二人なのに、一緒にいると妙にしっくりくるな。何でかな」
 Anongは複雑な思いでPeteの言葉を聞きながら彼らを見つめていた。
 普段は冷静で飄々としているKingがあの男を見たときにすごく動揺していた。あんな彼を初めて見た。ただの大学の後輩にあんなに動揺するものなのか。ピンときた。ああそうか、と。Kingが誰にもなびかない原因はあれか。
 静と動。月と太陽。性格も見た目も真逆だが、二人は同じ職人が作った一対の人形のようだ、とAnongは思った。片方だけでは成り立たない。同じ場所に飾られてこそ美しい芸術品。
 だけど何故だろう。明らかにお互いに好意を持っているのが分かるのに、妙に他人行儀で恋人同士ではなさそうだ。他人からの好意に全く気付かないスーパー鈍感人間と恋の駆け引きも知らなそうなガチガチ堅物男の、すれ違いといったところだろうか。
 二人が平行線のままで、お互いの気持ちに気付かずに時が過ぎればいいのに。そうしたら、もしかしたらKingは・・・。とそこまで考えてAnongは首を横に力無く振る。
「あ~あ、私ってほんと嫌な奴・・・」
「何独りごと言ってるの。俺はあんな障害物なんて気にしないね。ガンガンKingにアタックするからな!横恋慕は許さん!覚悟しておけよ!」
 横恋慕はあんたの方よ。ああ、そうだった。こいつは空気の読めない奴だった。だが今はそれが羨ましい。知らないでいる方が幸せなこともあるのだ。
 Anongは深くため息をついて、自分の勘の良さを呪った。


「ごめん、すっかり遅くなったね。さあ、入って、散らかってるけど。後で部屋を開けるから、取り合えず荷物はここに置いてね」
 今日は残業無しで帰宅しようと思っていたが、結局仕事を終えて帰宅したのはいつも通りの遅い時間だった。一人では帰れないRamを付き合せることになってKingは反省しきりだ。
「・・・相変わらずですね。懐かしいです。この感じ」
 見渡したKingの部屋は前のコンドと変わらず、様々な植物達でいっぱいだった。
「前のコンドより手狭になったからだいぶ少なくなったけど、こればっかりはやめられなくてさ。花は前より増えたけど」
 植物達に触れながら挨拶していくのも相変わらずだ。そう言えばデスクにもミニ観葉植物が所狭しと並べられていて誰のデスクか一目瞭然だったな、とRamは思い出して笑った。
「・・・・・・Ai’Ning、あのさ・・・」
 Kingは植物に触れていた手を止めて戸惑いがちにRamを振りかえる。
「はい、何でしょう」
「あ・・・」
 Kingは連絡を取らなくなったことを何と説明しようか、と朝から悩んでいたが、Ramの顔を見た瞬間何も言えなくなってしまった。Ramはそのことに何も触れてこない。彼が気にも留めていない事だったのならそのままにしておいてもいいのだろうか。
「あ、いや、それにしてもうちの会社のクライアント先に君が勤めていたなんてほんと偶然だよね」
「・・・そうですね」
「先にシャワー浴びておいでよ。その間にご飯用意しておくからさ」
 お言葉に甘えて、と先にシャワーに向かう。強めのシャワーにあたりながらRamは思う。何て忙しい人なんだろう。
 PCの調子が悪いから見てくれと上司から呼ばれ、後輩から仕事のアドバイスをお願いされ、重い書類を抱えた女子社員を助け、動かないコピー機を前に佇む年配社員に懇切丁寧に使用方法を説明し、挙句に人間関係に悩む先輩女性社員の相談にまで乗っていた。今日も帰りが遅くなったのはミスが発覚したデータの修正をしていたからだ。しかも先輩社員の仕事を、だ。その間に自分の仕事をこなし、なおかつ出向社員である自分の面倒も見なければならない。そんな目の回るような忙しさの中、彼はそれらを実に楽しそうにこなしていた。面倒見のいいのと頭が良く何でも器用にこなしてしまうのは昔からだが、それにしても・・・。
「P‘King、シャワーありがとうございま・・・」
 シャワーから出たRamが見たのは、食事の用意をしたテーブルに突っ伏して眠っているKingの姿だった。あんな働き方をしては疲れて当たり前だろう。
「P‘King、こんな所で寝ては風邪を引きますよ。それに食事をしないと」
「ん~、あと少し寝かせて・・・」
「いつも食事も取らないで寝てしまうのですか?体に悪いです」
 返事が無いことにため息をつく。これで痩せない方がおかしい。触れた肩が明らかに以前より細くなっていた。寝息をたて始めたKingの滑らかな頬をそっと指の背で撫でて語り掛ける。
「ねえ、P’King。俺は貴方に会うためにここに来たんですよ。偶然なんかじゃありません」
 Ramはしばらくの間、Kingの寝顔を見つめていた。

 
 Kingと連絡が急に取れなくなったとき、Ramはかなり混乱した。電話も通じない、ラインも届かない、最初何が起こったか分からなかった。まさか病気?怪我?それとも・・・最悪なことも考えた。親友のDuenに聞いたが知らないようで、恋人であるBohnにも聞いてもらったが、元気でいるという以外は答えてくれなかったという。Kingの友人たちや家族の連絡先などは聞いていなかったので、遠く離れた留学先からではどうする事も出来ずにRamは途方に暮れたのだった。
 留学を終え、帰国してすぐKingのコンドに向かったがそこには別の住人がいた。Kingの姉やTeeやMek達に聞けば連絡先くらいは教えてくれただろうが、Ramはそれをしなかった。連絡を絶たれた時、それが意味することを考えた。連絡先を教えないで姿を消す。それは何故か。ただ単に嫌いになって会いたくなくなった。恋人ができたから誤解されたくない。連絡先を教えるまでも無い単なる大学の後輩だった。どれを取ってもRamを打ちのめすには十分だった。


 ここに来る前、街で偶然Bohnに出会った。元気だったか?久しぶりだな、の言葉も無くいきなり彼は言った。
「何であいつに会いに行かない」
「何のことですか?」
「いつまでも放っておくと誰かに取られちまうぞ」
 とぼけるのは通用しないようだ。
「・・・見捨てられたのは俺のほうなのに?」
「本気でそう思ってるのか?Kingは自分のことより相手のことを一番に考える。そういうやつだ」
 そんなことはよく知っている。どんな時も自分の気持ちを汲み取って一番欲しい言葉をくれる人。
 待っていて欲しいと言った訳でも、待っていると言われた訳では無かったが、RamはKingが当然待っていてくれるのだと思い込んでいた。あの植物がいっぱいの部屋で留学から帰るのをお帰りと迎えてくれるものだと信じて疑わなかった。行ってらっしゃい、と見送ってくれた時と同じ笑顔で迎えてくれると思っていた。
 だからこそ今回の仕打ちに途方に暮れていた。少なくとも好意を持っていてくれていると思っていたから。
「俺はあいつの連絡先を知っていたが、敢えてDuenには教えなかった。Tee達やKingの姉さんにもおまえから聞かれても教えるな、と言っておいた」
「・・・何故そんなことを」
 いきなりの理不尽なことを聞かされて怒りに拳も震える。
「俺はな、お前の本気を知りたかったんだよ。拒絶されてもなおあいつを思う気持ちを知りたかった。それなのにおまえときたら簡単に諦めやがって。そんな奴に親友を任せられるかよ」
「・・・!」
 そんな勝手なことを、と思いながらRamは反論出来ない。
「ほんとは薄情なおまえとなんか会わない方があいつの、Kingのためだと思ったんだ。おまえなんか忘れて可愛い恋人を見つけて、幸せになって。だけどな。駄目なんだよ。あいつは人の幸せばかり願って、自分のことはほったらかしだ」
「それは・・・」
「俺じゃあいつを救ってはやれない。他の奴じゃあ駄目なんだよ!・・・そんなことに気付いてやれるのに3年も掛かっちまった」
 悔し気に強い瞳で睨んでくるBohnをRamは呆然と見つめ返す。
「俺はこれからデートなんだよ。そんな情けない顔をDuenに見せるな」
 立ち去ろうとしたBohnは不意に足を止めて振り返らずに言った。
「ちゃんと言葉にしねえとあいつには伝わらねぇぞ。クソが付くくらい鈍感だ。そんだけだ」
 その場にしばらく立ちすくんでいたRamは、踵を返して走り出した。


「お待たせ、Bohn。遅くなってごめんね。あれ、誰かと一緒だった?」
「いや、道を聞かれただけだ。早く飯に行こうぜ、Duen。腹減った」
「なにそれ、せっかく忙しいのに急いで来たのにご挨拶だね」
「ごめん、ごめん。今日も可愛いぜ」
 バーカ、とむくれながらも嬉しそうな恋人の肩を抱き寄せる。
「そう言えばP’Kingに会ったんだって?」
「ああ、昨日な」
 僕も会いたかったなぁ、と呟くDuenの横でBohnは小さくなっていくRamの後姿をそっと振り返る。
 いけ好かない後輩だが偶然の出会いに敬意を称して、少しくらい塩を送ってやる。後はお前次第だ。お互いが運命の相手だったらいつかは巡り合えるだろう。頑張ってくれよ。親友のためにもな。


 とは言うものの、縁故や友人関係は頼れないとなるとKingを探すのにどうしたらいいかと、あれからRamは日々思案していた。だが幸運の女神はすぐに舞い降りる。自社の広告があまり知られてはいないが最近業績を上げている新進気鋭の会社に決まった。
 その中にあなたの名前を見つけた時の驚きといったら、分かりますか?
 その矢先の出向の話。自分で言うのも何だが、自分は新人ながらかなり優秀な方だったので、進んで志願したらすんなり希望が通ったのだ。これを偶然と言うならそうなんだろう。だが自分は運命なんだと信じたい。
 Kingと離れていた3年の間、Ramは彼をひどく恨んだ。忘れようと、恋人を作ろうと思ったがそれも出来なかった。Ramの思いを占めるのは、いつでも自分を優しく包んで理解いてくれたKingだけなのだ。忘れるどころかKingという唯一無二の存在が、Ramにとってどれだけ大切だったか思い知る。
 他の奴じゃあ駄目なんだ、とBohnは言った。あの言葉が本当なら、いや、たとえ嘘でも、たとえ今恋人がいても、そんなことどうでもいい。もう後悔しないように。あの時言えなかった言葉を伝えたい。
 Ramはやっと前へと一歩を踏み出した。
 

「・・・ん」
 カーテンの隙間から光が漏れて少し眩しい。朝か。あれ?寝てた?確か夕飯を買ってきてRamと・・・。飯食ったっけ?いつベッドに入った?枕が固くて首が痛い。どこかで覚えのある感じ・・・。はっ、と目線を上げるとそこには・・・。白い肌とドリームキャッチャー・・・?
「!!!」
 Ram!?思わず声を上げそうになってKingは口を押える。何?これはどういうことだ?何でRamと寝て?しかも腕枕!あのキャンプの朝の時と同じ!?
「P‘King?起きましたか?」
 パニックになったKingは思考が追い付かない。
「あっ・・・。あの・・・。な、何で・・・一緒に寝て?あっ、お、俺シャワーも浴びてない!?ご、ごめん匂ったんじゃ・・・」
「あなたはいつも花のいい香りがします」
 うわっ、何てセリフをそんな真顔で言うんだ。冗談でもやめて。顔も赤くなっているのが分かる。明日からはちゃんと客間を用意しよう。それにしてもどうやってベッドまで運んだんだろう・・・。


 その日から食事の担当はRamになった。どれも消化のいいものをたくさん用意してくれるのだが、食が細くなってしまっているKingには全部は食べられそうにない。Ramは食べ終わるまで前に座って離れてくれない。目で残しちゃダメ?と問うてもダメです、と頑なに首を横に振るのだ。
「少し肉付きのいい方が好みなんです」
「えっ?何て?」
「何でもありませんよ。さあ早くしないと遅刻しますよ」
 にっこり笑うイケメンRamに、この鬼!悪魔!と心の中で毒づきつつ、泣く泣く朝食を流し込むKingなのだった。


「色んなところから空気が漏れてるぞ~」
 冷たいものが頬に触れて考え事をしていたのだと気が付く。デスクのパソコンの画面もいつの間にか真っ暗だった。
「P‘Anong。ああ、ありがとうございます」
 差し出されたコーヒーを受け取ってKingは密やかにため息をつく。
「あんたが物思いにふけってため息なんかついてるから、女子社員どもの気が散って仕事にならないんですけど?お姉さんにお悩み相談してみない?ついでに言うとちらほら男性もいるけどねえ」
「?・・・まあ悩みというか・・・胃もたれと言うか・・・」
「恋のお悩みですか?」
 飲んでいたコーヒーを吹き出しそうになってあわてて口を押える。
「何言ってるんですか!・・・そんなんじゃありませんよ・・・」
 過保護なまでのRamの世話焼きには、ほとほと困り果ててはいた。だが、だからと言って嫌ではなかった。Kingの身体を思ってのことだし、大学時代の怪我をした時のかいがいしく世話を焼くRamを思い起こさせて懐かしい。
 Ramの父親の不倫による家出から始まった二人の同居は、Ramが3年生になって留学するまで続いた。Ramとの同居は本当に心地よかった。あのキャンプの夜のキスもRamが触れてこないのをいいことにうやむやにして。そんなにしてまでもKingはその心地よさを手放したくなかった。あんな相手とこの先巡り合うことなんてあるのだろうか。恋の悩みか・・・。これを恋と言うならそうなのかも知れない。報われることの無い恋。
 Ramにとって自分は面倒見のいい親切な先輩なだけなのだ。彼にも恋人だってできただろう。離れていればいつか忘れられると思っていた。仕事に没頭していればなんとか思い出さないでいられた。それなのRamは自分の前に現れた。偶然取引先の社員だっただけで他に何の意味も持たないのだろうけど。
 1週間たてばRamは自分のコンドから出ていく。数か月もすれば自分の職場へと戻っていく。そして元の生活に戻るだけだ。それなのに・・・。どうしてこんなに心が苦しいのだろう。どうして忘れさせてくれないのだろう。今も昔もKingの心を揺さぶるのはRamという存在だけだった。
「自分の気持ちに素直になりなよ。後悔しない?彼は数か月後に帰ってしまうんでしょう?」
 素直に?なってどうする?相手が困ることが分かっているのに?・・・・・・ん?
「えっと、P’今のはどういう・・・」
「ハーフの後輩君。好きなんでしょ?」
 ええ、まあ、てっ、え?ええ~~~っ!?
 恐る恐るAnongを振り返る。彼女は恐ろしく綺麗な笑顔を向けて言った。
「うふ、女の勘」
 うわぁ、マジかぁ。
 その場にへたり込みそうになった。
「そうそう、今日Ram君の歓迎会やるから。チャンスだわよ」
 チャンスって何の?
 Kingは女の勘の恐ろしさを改めて思い知ったのだった。


 歓迎会は会社の近くのホテルの中にある食事も取れるバーで行われた。ホテルのバーだけあって上品な雰囲気で食事もうまい。値段も高くなく、さすがAnongは店選びのセンスも抜群だ。
 Ramはというと、やっぱり女の子たちに囲まれている。どこで知ったのか隣の会社の女の子もいるようだ。しつこく連絡先を聞きかれているようで、困っているのが遠目からでも分かる。Anongにあんなことを言われて、Ramに近づくことが憚られるていたKingにとっては好都合だったので、気の毒だけど放っておいた。隅の目立たないところでちびちび酒を舐めていると、グラスと料理を抱えた先輩がやって来た。
「やっほー、King!飲んでる?あ~、あんまり飲んでないな。ちゃんと食べてる?」
 はい、と料理の乗った皿を渡された。
「お疲れ様です。今日もすごくお洒落で素敵ですね」
 Peteは上下をラルフローレンでアイビーぽくまとめていて良く似合う。いつにも増してハイテンションな先輩にKingは少し笑ってしまう。彼の元気は今のKingには救いだ。
「ありがとう!Kingもかわいいよ~!あ~、イケメン出向社員は女子に囲まれてるな。あれで愛想がよかったら言うことないのに。昔からあんなふうなの?Kingの後輩でしょ?あれ」
 Peteは無表情で酒をあおっているRamを顎で指す。Kingは心の中で苦笑いだ。
 あれは、あれでも周りに気を使っているんですよ。少しは会話しているようだし、昔の彼ならとっくに席を立っているだろう。
「あれは、昔からあんな風でしたよ。俺が話しかけても最初は無視だったし、会話はラインだったし、後輩なのに俺に自転車の運転させるし」
「そりゃひどいな」
「ですよねぇ」
 ほんと最初はひどかったよな。でも・・・、友人思いで、面倒見が良くて、傷つきやすくて、子供が苦手で・・・。知れば知るほど興味がわいて、どんどん引かれていった。
 彼を好きになった瞬間なんて覚えていない。図書室でタトゥーを見た時だったかもしれないし、キャンプのキスの時だったかもしれない。
 ふとKingは軽い眩暈をおぼえた。疲れているせいか酒の回りが早いな。あまり飲んでいないのに。
「そうそう俺、家が遠いからここのホテルに1部屋借りたんだ。帰るのに困ったらおいでよ。泊めてあげるから」
「ありがとうございます。でも近いしタクシーで帰れるから大丈夫ですよ」
 Ramもいるから、と酔い始めた頭でKingはぼんやり考えていた。


「ちょっと、彼借りるわよ」
 え~、とRamを取り巻いていた女子から一斉に不満の声が上がったが、Anongはにっこり笑ってそれを無視し、Ramを引っ張り上げた。
 いきなり女子の群れから釣り上げられて戸惑うRamをグイグイ引っ張ていたAnongは、少し離れたところで掴んでいた腕をいきなり放り出した。
「あなたも、あんな女達に捕まってないでさっさと逃げていらっしゃいよ!」
「はい、すみません・・・」
 いささか乱暴なこの美女はKingと同じ部署の先輩だったな。確かランチの時にもいた。長身の美女が怒った姿はなかなかの迫力だ。あの喧噪な女子の群れから助け上げてくれたのは大層助かったが、だけど何で助けてくれたのか、何で怒られているのか分からない。考えていると美女が急に立ち止まったのでRamは危うくぶつかりそうになった。
「あのさ」
「はい?」
 前を向いたまま美女が言う。
「私ほんとはこんなことしたくないんだ」
「え・・・」
 一瞬彼女が泣いているのかと思った。Ramが何か言おうとした時、ぐるりと美女は振り向いた。
「あんた達がグズグズしているからイライラするのよ!さっさと告白して、さっさとくっつきやがれ!」
 言われた言葉の意味をしばらく理解出来ずに、腰に手を当てて仁王立ちする美女をRamは凝視してしまった。
「行くわよ!」
 ど、どこへ?するとまたいきなり立ち止まられて、今度こそぶつかってしまった。
「あれ?Kingは?」
 そう言えば女の子に囲まれて困っていた時、視線の先にKingがいた場所だ。彼女達といて唯一の収穫だったのは、Kingには付き合っている人はいないようだ、と聞き出したことだった。
「あ、ねえKingどこに行ったか知らない?」
 隣の席にいた同僚達に声を掛ける。
「ああ、何か気分が悪そうにしてたよね。どうしたんだっけ」
「KingならPeteが抱えて連れて行ったよ。ここに部屋を取ってるから寝かせて来るって」
 PeteってKingの髪に触れていた軽薄そうなメガネ男!明らかにKingに気がありそうだったあいつ!
「あいつ、まさかKingのこと!」
「!!!」
 Anongの言葉にRamは震撼する。まさか、そんなこと!
「何号室か知らない?」
「確か303号室だったよ。キーナンバーが見えた」
 聞き終わるより先にRamは走り出す。上品な赤いカーペットが引かれた階段を2段飛ばしで駆け上がる。くそ!間に会ってくれ!

 
 Ramが駆け上がった先に、Kingを抱えたPeteがドアにカードキーを差し込む姿が見えた。
「P’King!」
「えっ、イケメン君?どうし・・・」
 RamはぐったりしているKingを取り返してPeteを突き飛ばした。その拍子にPeteは観葉植物の鉢に倒れ込んだ。
「おい!いきなり何するんだ!」
「そっちこそ、P’Kingをどうするつもりだったんです!」
 強く睨まれてPeteは一瞬ひるんだが、負けじとRamに掴みかかる。RamはKingを抱えているため反応が遅れる。
 くそっ!このままではP’Kingを巻き込んでしまう!
「・・・Ram?」
「P’King!気が付きましたか?」
 大声で目が覚めたKingだったが、何が起こっているのか分からない。かすむ視線の先にPeteがRamに掴みかかっているのが見えた。
「え、P’Pete?何して・・・」
「P’Kingはそっちへ離れて!」
 とん、と軽く押され、酔いのせいでまだ足元がおぼつか無いKingは、立ち止まれずに後方へたたらを踏んだ。だがその先には。床が、無かった。え?体がふわりと浮いた。
「P’King?!」
 落ちる!と思った瞬間、手首に激痛が走った。そして強い衝撃とともにKingは階下に転がり落ちた。


 キャー!!
 女性の悲鳴とともに人が駆け寄ってくる足音がする。何が起こったんだ?Kingは体を起こそうとした。
「つうっ!!」
 手首にひどく痛みを感じたが他に痛みはない。階段を上から落ちたのか?
「King!」
 自分を呼ぶ女性の悲痛な叫び声。P’Anong?
「大変だ!人が階段から落ちたぞ!救急車を呼んでくれ!」
 自分は大したことは無い。救急車なんて大げさだ。再び起き上がろうとしたが体が動かない。何で?え?誰かに抱えられてる?
「Ram!大変!Ram!」
 Ram?視線を上げたKingがそこに見たのは、自分を抱えたまま動かないRamの姿だった。
「・・・Ram?」
 痛む左手でRamを揺すろうとした。寝てるの?起こさなきゃ。
「動かしちゃダメだ!」
 階段を駆け下りて来たPeteの声にぎくりと手を止める。
「King!あんたは大丈夫なの?」
 心配そうなAnongの声がずいぶん遠くに聞こえる。
 Ramは?自分を庇って落ちた?何で動かないんだ?まさか・・・?
 声を掛けたいのに言葉が出てこない。唇が、手が、足が、身体が震える。
「King!しっかりして!」
「あ・・・」
 救急車が来たぞ!の声もKingには聞こえなかった。ただ動かないRamの傍らに座り込んで震えていた。


「ひどいじゃないか!俺は本当に心配でKingを介抱しようとしてただけなんだからな!こう見えても紳士なんだぞ!おまけに化け物か?あの階段から落ちて擦り傷一つ無いなんて!」
「ハイハイ、Pete君、静かにしようね。ここは病院なんだから。だってしょうがないじゃない。あんたの日頃の行いが悪いからさ。それにしてもほんと頑丈よね、君」
「はい、色々と申し訳ありませんでした。体は鍛えているのでお陰様で何ともありません」
 RamはKingを庇って階段を転げ落ちたが、脳震盪を起こして気を失ったものの全くの無傷だったのだ。
「脳にも異常ありませんでした」
 脳まで鍛えとるんかい!と心の中でAnongとPeteの二人が突っ込みを入れた時、診察室の扉が開いた。
「King!手は大丈夫だった?」
 診察室から出て来たKingは左手をギプスで固定され三角巾で吊られている。
「ねん挫とあと軟骨を少し損傷してたみたいで、しばらく固定が必要みたいです。えっと、と言っても痛みとかあまり無いんですよ。これちょっと大げさですよね」
 本当はかなり痛みがあったが、3人の顔が瞬時に歪んだのを見て、Kingは慌てて大したことは無いことを強調した。
「すみません、P’King。俺がきつく手首を引っ張ったばっかりに怪我をさせてしまって」
 階段から落ちるKingを寸前で捉え、庇うことには成功したものの、咄嗟のことで掴んだ手に力の加減まではできなかった。
「何言ってるの!君が掴んで庇ってくれなかったら手のねん挫だけじゃ済まなかったよ。俺の方こそごめん・・・。飲み過ぎたから・・・。P’Peteにも迷惑を掛けてしまって・・・。ほんとにすみません・・・」
 唇を噛んで申し訳なさそうに顔を伏せるKingにRamもPeteも言葉が出てこない。多分何を言ってもKingは自分を責めるのを止めないだろう。この人はそういう人なのだ。
「伊達に鍛えているわけでは無いので大丈夫ですよ。俺よりあなたが無事で何よりです」
「そうそう、Peteも怪我も無かったしね」
「おい!俺は間男を疑われて大層傷付いたんだぞ!?」
 怒れる先輩を無視しRamはKingの手を取った。
「さあ、疲れたでしょう?帰りましょうか」
「え・・・あ、うん」
 暗い待合室のリノリウム風の床に視線を落としたまま、Kingは頷いた。


「King、大丈夫かしら」
 二人が乗ったタクシーを見送りながらAnongが呟く。
「手首の怪我か?本人も大したことないって言ってたし、大丈夫なんじゃないか?」
「あんたってほんとシアワセね。そうじゃなくて何だか様子が変だったから」
 動かなくなったRamを呆然と見つめて、ただ震えていたKingの姿が目に焼き付いている。無事だと分かった時もほっとはしていたが、視線は虚ろにさまよっていた。Kingにとってよほどショックな出来事だったのだろう。そりゃあそうか、好きな人がまさか・・・、と思ったら。
「ところでさ、あんたほんとにKingに何の下心も無かったの?」
「ハハハ、な、なに言ってるのかなぁ?当り前じゃないか。本人の同意なくしてそんなこと・・・」
「するわけないって?目が泳いでるわよ~。素直に吐きなさい?Pete君?」
 急に振られて狼狽したPeteだったが、いつになく優しくAnongに問われて、
 すみません、ほんの少しありました・・・・
 消え入りそうな声で白状した軽薄男にAnongはタイトスカートを捲り上げて、容赦の無い蹴りをPeteの尻に入れたのだった。
 

 「P’King大丈夫ですか?」
 タクシーの窓から外を眺めたままぼんやりしているKingにRamは声を掛けた。
「え?ああ、大丈夫だよ。ごめん、ぼうっとしてた」
「本当ですか?手が痛むのではないですか?」
 痛くないよ、と笑ってKingは答えたが、Ramは何故だかとても不安を覚えた。
「痛み止め効いてるし。それにしても君ってほんと頑丈だよね。あの高さから落ちて何ともないなんてさ」
 人間じゃないんじゃない?と笑っている。なのに違和感がぬぐえない。そうか、さっきからKingはこちらを一度も見ないのだ。
「俺も鍛えようかなぁ。武道とかいいかも。受け身取れてたら落ちても怪我しにくいよね」
「P’King」
 腕の包帯を見つめたまま、なおもこちらを見ようとしないKingにいら立って、強引にこちらを向かせようとした時タクシーは目的地に到着した。

 
 植物達に軽くルーティンをこなしていく姿はいつものKingに見える。後姿を黙って見つめているとKingがこちらをくるりと振り返った。
「ねえ、Ai’Ninはお腹すいてない?あまり食べてないんじゃないの?」
「え、いいえ、大丈夫です」
「そう?じゃあシャワーだけ浴びてもう寝ようか」
 そう言って笑顔を向けて来るKingはいつもの彼だ。思い過ごしだったか。
「あなたはどうするんですか?その手でシャワーは無理ですよ」
「大丈夫だよ。利き手は何ともないし。濡れないようにビニールの袋を被せておけば・・・!痛っ!!」
 動かした拍子に左手首に激痛が走りKingは思わず悲鳴をあげる。
「P’King!大丈夫ですか!今日は止めておいた方がいいです」
「ええ~~、せめてシャンプーだけでもしたいなぁ~~。何とかなるよ~~」
 子供っぽく駄々をこねるところがたまにKingにはあって、まあそれもRamにとっては可愛くもあるのだが、さすがに上目遣いに見上げられても見逃せる案件では無い。
「では、俺が洗ってあげます」
 とKingの手を引いてシャワー室へ向かう。
「えっ?ええっ!?」
 びっくり顔で見上げてくる彼も可愛いな、とRamは思った。


「シャワーでお互い洗いっこでもすると思いましたか?いつぞやは一緒にシャワーを浴びた仲なのに今更でしょう?」 
「~~~Ai’Ning、それってセクハラだからな!」
 リビングのソファに座ってドライヤーで髪を乾かしてもらいながら、Kingは少し悔し気に言う。
 まさにそう思ってしまっていた自分が恥ずかしいではないか。まあ、洗面所の前に椅子を置かれて座らされた時は正直ほっとしたが。
 絹糸のようなKingの柔らかい髪にドライヤーをあてながら指で梳く。細くて白いうなじがRamを誘う。
 ・・・さっさと告白して、さっさとくっつきやがれ!・・・
 美女の言葉がリフレインする。一緒にいられる事が嬉しくて、つい本当の目的を忘れてしまっていた。
「P’King、俺は・・・」
「ねえ、Ai’Ning」
「え、はい。何でしょう」
 いざ告白をしようとして寸止めされ、うなじに触れかかった手も止まる。だが待ってもKingは何かを言うわけでもなく俯いたまま振り向かない。タクシーの中で感じた漠然とした不安がRamの中に蘇る。
「P’King?」
「ごめん、何でもない!あのさ、俺明日土曜だけど仕事行くんだ。だからもう寝るね。君も早くシャワー行きなよ。髪洗ってくれてありがとう」
 そう言い残してKingはリビングを出て行こうとする。
「な、何を言ってるんですか?!怪我してるんですよ!明日は休んでください!」
「大丈夫だよ。ただのねん挫だし。少しやっておきたいことがあるからさ」
「P’King!!俺を見てください!!」
 両肩を掴んで強引に振り向かせるが、下を向いたまま顔を上げない。
「何、君は俺の保護者なの?相変わらず怪我人には親切だね」
 笑って言っているように聞こえるが、長めの前髪に隠れて表情が分からない。掴んだ肩に力が入る。
「痛いよ。Ai’Ning」
「す、すみません、でも」
「ごめん・・・。少し一人にして・・・。疲れちゃった・・・」
 拒絶の言葉に力の抜けたRamの手からすり抜けて、Kingは出て行ってしまった。一度もRamの顔を見ないまま。


 次の日からKingは朝はRamより早く出勤し、Ramより遅く帰宅するようになった。明らかに避けられている。しかし社内ではまったく普段と変わりなく接してくる。仕事ぶりも変わりない。いや、むしろ・・・。
「どうしちゃったの、Kingは。頑張りすぎてない?あんたと話す時なんか特に。随分テンション高いよ。何かやらかした?怪我人に手を出したんじゃないでしょうね」
 休憩スペースでコーヒーを啜っていたRamは、思わずカップを取り落しそうになった。
 はい、手を出しそうになりました。
「貴女には何でもお見通しなんですね。P’Anong」
「まあね。あいつの些細な変化が分かるのは、ここでは私くらいだけどさ」
 二人でコーヒーを飲みながら、アクリルのパーテーション越しにKingを見ていた。いつも以上に笑顔で、いつも以上にてきぱきと仕事をこなしている。細いシルエットが更に細くなった気もする。吊られた手もまだ痛々しい。
「King、今日も昼食食べてなかったよ。壊れる前に何とかしてよ・・・」
「・・・・・・」
 朝食も食べているのか早く出勤しているから分からない。
 今日はKingのコンドから出る日だ。Ramは空になったカップを握りつぶした。


「P’King、今日からホテルに移るんですが」
「ああ、そうだったね。君には逆に迷惑ばかり掛けてしまってごめん」
 仕事の合間を縫ってようやくKingを捕まえたRamは、どう話をしようか思案に暮れていた。職場で個人的な話は出来ないし、かと言って食事に誘っても軽くあしらわれて逃げられてしまいそうだ。だがそんなことも言ってはいられない。
「いえ、そんなことはありません。ありがとうございました。お礼と言っては何ですが今晩帰りに食事でも・・・」
「いいよ、そんなの気にしなくて。今忙しいからまた今度行こうよ」
 今度が永遠に来ない気がする。
「俺は今あなたと話がしたいです」
「・・・・・・・俺には話なんてないよ」
「P’King!」
 自分の仕事に戻ろうとするKingの腕を掴んだ瞬間、思いっきり振り払われた。同時にRamの手の甲にピリリと痛みが走る。Kingの爪が振り払われた時に掠めたのだ。
「・・・P’King」
 薄く血の滲んだ手をRamはぼんやりと見つめる。
「あ・・・、ご、ごめん」
 心配げな視線を寄こしたKingを再度捕まえようとして手を伸ばしたが、Ramの手は彼に届かなかった。
 え?
 空を切ったRamの手の先にはオフィスの無機質な風景しか無かった。視線を下ろした先に見たのは、床に崩れ落ちたKingの姿だった。