絵本
わたしは断捨離が苦手だ。
特に本は捨てる事ができない。
何故なら、本は読む時々によって感じ方が違うからだ。
子供の頃に読んだ本は、大人になって読み返すと、今になって解る事が沢山ある。
例えば[星の王子さま]などは、子供の頃ちっとも面白くなかった。
それが読み返してみると、バラの花が作者サン・テグジュペリ自身の奥様をモデルに書かれており、彼自身の自叙伝のような物だと知り、尚且つ作者が1番伝えたかった
[大切なものは目では見えない]
というメッセージが犇々と心に響いたのである。
[大きな木]という絵本も嫌いだった。
我が儘な男の子と、男の子を甘やかす木。
何度も繰り返される
[木はしあわせだった]
というフレーズ。
何故木はこんなに男の子の為に自分を犠牲にするのだろう?
そして何故それが幸せなのだろう?
小さい頃は男の子が大人になって何もかもなくしてしまい、木の元へ帰る結末で、
[我が儘をしてはいけないよ]
というメッセージだと受け止めていた。
しかし大人になると、木の目線で男の子を見てしまう。
木は男の子が大切で大好きで、自己犠牲さえも男の子の為なら幸せに感じる。
何だかこの気持ち、解ってしまった。
周りの友人達は、いつも子供の為にがんばっていて、その姿がとても素敵で、輝いて見える。
心から尊敬している。
自分の事ばかり考え、自分中心で生きている自分は、とてつもなく小さく感じる。
守るべきものがあると、人は変わる。
他者の幸せが自分の幸せとなる。
[大きな木]は大好きな本となった。
とても大きな意味を持った本もあった。
[モモちゃんとあかねちゃん]シリーズである。
全6巻からなるこの本は、こちらも作者自身の自叙伝的童話である。
作者の松谷みよ子さんは大好きで、他にも何冊か絵本を読んだ。
作中、ママはパパと離婚する。
何故別れてしまうのか、子供心に悲しくて悲しくて堪らなかった。
しかし大人になって読み返してみると、実に丁寧に別れを描写されている。
魔法使いのおばあさんにママが相談に行くと、
"パパは歩く木、ママは根をはる木。
そして歩くパパの肩には小鳥が留まっている。"
と伝えられる。
ママとモモちゃん、あかねちゃん3人がお引っ越しをしてパパが1人お家に残る。
悲しくて何度も涙が出た。
しかしモモちゃんたちは懸命に新しい暮らしに溶け込んでいく。
そんな中、オオカミになったパパがお客さんとして新しい家にやってくる。
何故オオカミなのか?
そしてそれは実は着ぐるみで、すぐに脱ぐことができる。
これは今でもわたしの胸の奥に残る痛みと似ている。
わたしの父と母も離婚しているが、離婚するまでの過程、何度か別居があった。
母方の祖母の家に身を寄せていた時、何度か父が訪ねて来た事があった。
その度に祖母と母に[シッ!]と言われ、音を立てず身を潜めた。
とてもとても恐ろしかった。
父は何度もわたしの名前を呼び、諦めて帰ると、
[きっと休みだから何処か遊びに連れて行こうとしたんじゃない?]
と祖母と母が話しているのを聞き、とてつもなく悲しくなった事を今でも覚えている。
美味しそうな場面も大好きだった。
森のクマさんはお料理が大好きで、美味しいお粥を作ってくれる。
モモちゃんに[卵も入れる?]と聞いてお醤油もちょっと垂らして…のシーンは何度読んでもお粥が食べたくなった。
モモちゃんシリーズに限らず、絵本には美味しそうな場面が沢山出てくる。
[ぐりとぐら]のカステラ。
[カラスのパン屋さん]など。
[はらぺこあおむし]もそうだが、成長期の子供の"大きくなりたい!成長したい!"という本能に響くのだろうと思う。
でも大人になっても美味しそう。
大人になっても時々手に取りたい絵本。
しかし最近立ち読みした本は何とも後味の悪い物であった。
エドワード・ゴーリー作
[不幸な子供]
最後まで不幸で救われない子供のお話。
同じ作者で、
[おぞましい二人]
という作品もあり、こちらも身の毛もよだつような内容である。
子供向きではないことは確かだ。
作者は何を伝えたかったのか?
今のわたしには解らないけれど、何年か経つと見えてくるのであろうか。