欅坂の道化師 その5

挑発的な問いかけと共に立ち上がった鳴滝に対し、怯む事なく守屋茜も腕を組んで対峙する。何人もの癖のあるエージェントを束ねる女だ。気の強さは男にも負けてはいない。

「それはね……『あなたが望んでいた事』だからよ」

力強く、しかし、どこか寂し気に守屋茜は目前の鳴滝へと言い放った。互いの目の奥を探るような暫しの沈黙の後、彼女の言葉を予見していたかのような薄い笑みと共に、鳴滝は再びソファーへと崩れるように腰を降ろした。

「負けたよ。君には敵わないな」

「当たり前でしょ。三年間、親よりも長い時間を相棒として共に過ごして来たんだから」

一触即発の事態を回避し、守屋茜も同じくソファーへと腰を降ろす。
その二人の様子を戦々恐々としながら見守っていた齋藤冬優花もまた、安堵と共に自らの事務机の椅子へと座り込んでいた。

「それで、何を見てそう思ったんだ? 」

「そうね……まず、カウンター席であの子の隣にあなたが座っていた事……」

「そこからかよ! 」

その鳴滝の声はどこか弾んでいて、そしてそれは守屋茜にとって、かつての聞き慣れた鳴滝の声だった。難事件であればあるほど、この男の声のトーンは上がるのだ。

「あの子がクライアントであるなら事務所で話しを聞くはず。飲食店を利用するならクライアントの自宅近辺、もしくは勤務先近辺のはず」

「ですよね」

負けを認めた鳴滝は大人しく相槌を打った。

「事務所がすぐ上にあるのに、あの店を使う事はあり得ない。万が一に使うとしても、テーブル席にするはずよ。それに……」

「それに……? 」

最後の言葉を言い淀んだ守屋茜へと、催促するかの様に鳴滝が問いかけた。

「それに……あなたの隣は、尾関梨香の指定席でしょう? 」

その言葉に鳴滝は一瞬動きを止めた。

「指定席って、馬鹿な事を言うな」

「とにかく!」

鳴滝の言い訳を断ち切るかの様に、守屋茜が声を少しばかり荒げていた。

「あの位置に座る事は、あなたの身内である可能性が高い」

「俺が口説いてたって可能性もあるだろう」

「それを出来ないのがあなたでしょう」

「ですよねぇ……」

再び訪れた険悪な雰囲気に耐え切れず、齋藤冬優花が無意識に相槌を打っていた。

「で? 」

齋藤のせっかくの相槌を打ち消すかのように、日本語において最短で最強の挑発である言葉を鳴滝は守屋茜へと投げつけた。

「怯える彼女に、あえて事件への私達の見解を聞かせて様子を見ていたんでしょう?」

「怖い女だな、君は」

抵抗を諦めたかの様に、鳴滝は右手で自らの顔半分を隠す様に覆った。

「あの怯え方は何かのトラウマによるものよ。ただの怖がりってわけじゃないと思う」

その時、守屋茜の白い高級バッグから僅かな振動音が聞こえてきた。

「きっと立花君からだわ」

そう言うと守屋茜は、髪を掻き上げた左耳へとスマートフォンをあてた。

「立花君って?」

聞き慣れない名前に、齋藤冬優花は興味津々だ。

「茜の部下のイケメン君だ」

「イケメン?芸能人で例えると?」

「知らん」

そんな二人の目の前で、守屋茜はスマートフォンからの声に神妙な面持ちで聞き入っている。

「そう。分かったわ。気を付けてね」

会話を終えた守屋茜は、右手の人差し指を顎へとあてがった。これが、この女の考え事をする時の癖なのだ。

「それで、イケメン君は何だって?」

平静を装いながらも、鳴滝は報告内容を急かす。それも守屋茜はお見通しだ。

「長沢菜々香は途中で車を降りたそうよ」

「場所は?」

「自宅とは反対方向の繁華街のコンビニ」

「彼氏の家にでも寄るんだろうさ」

「随分と彼女を擁護するのね」

「君も随分とあの子を疑うんだな」

互いを牽制する三度目の修羅場が訪れようとしていた時、それを見守っていた齋藤冬優花が意外な一言を口にした。

「何だか、うちのお父さんとお母さんの喧嘩みたい」

その言葉は言い合う二人の思考を鈍らせたらしく、僅かばかりの沈黙がその場を包み込んだ。

「あなたが彼女を疑いたくない気持ちは分かるわ。けれど今回の案件は異常よ。それは認めるわよね」

話しを本題へと戻すべく、先に沈黙を破ったのは守屋茜だった。

「ああ、確かに。平手友梨奈の家出もただの家出では片付けられない状況だな」

「あの菅井財閥が自ら動き出したとなると、それは一筋縄ではいかない。でしょう?」

「だな。この案件にはとてつもない裏がありそうだ」

「正確な例えではないかもしれないけれど、少なくも今の状況は、菅井親子の喧嘩に巻き込まれたみたいなものよ」

「壮大な親子喧嘩だな」

それだけ言うと、鳴滝は意味ありげな笑みを浮か
べた。

「私達は所詮、チェスの駒なのよ」

「しかし、それは長沢菜々香にも言える事かもしれない」

「あなたは優し過ぎるわ」

「何が言いたい?」

「あなたはもう、一人のエージェントじゃないの。経営者として守るべきものがあるはずでしょう」

「そうだな。しかし、経営者である前に、一人の人間なんだよ」

「甘いわ。長いものに巻かれる事も時には必要よ」

「甘い?それで結構。もう一つ言わせてもらえば俺は男なんだよ。女の涙を前にして、黙っていられるか」

「ヒーローにでもなるつもり?」

「そんなつもりはさらさらないさ」

「ならば、何故?」

その守屋茜の問を受けて、鳴滝は右手で顔の半分を覆った。これが、この男の考え事をする時の癖である事も守屋茜は知っている。

「解せない部分は多々あるが、俺にはどうしても彼女が何かを企んでいるとは思えない」

「彼女が菅井側のスパイだとしても? 」
ゆっくりと、しかし確実に守屋茜の口から漏れ出たその三文字が鳴滝の思考を動かした。

「スパイだと?……君は何を知ってるんだ?」

顔を覆った右手の指の隙間から鳴滝の右目が光る。だが、その目さえ、守屋茜にとっては過去に幾度となく見てきたものだった。そして、それはあるひとつの確信を、彼がその心の中に宿している事も知っていた。

「あなたは『思えない』じゃなくて『思いたくない』んでしょ?」

言葉による感情を押し殺し、守屋茜は自らのバッグから取り出した書類の束を鳴滝の前へと叩きつけていた。

「それは守屋エージェンシーの山形支部に依頼された案件の依頼内容のコピーよ」

守屋茜がそう言い終える前に、鳴滝は叩きつけられた書類の一枚を手に取っていた。

「依頼主『ナガサワホールディングス』調査対象……『鳴滝慎吾』……」

淡々とその書面の文字を読み上げる鳴滝の前で、守屋茜は尚も腕を組んで立はだかっていた。

「探偵に探偵を調べさせたのかよ。で、こちらで担当したのは? 」

「立花くんよ」

「あのイケメンくんか。変な報告してないだろうな? 」

「煮ても焼いても食えない奴って書いて送り返してたわ」

「ひでぇな、おい」

「そんな事より……」

「ああ、分かってる。ナガサワか……」

鳴滝はひとつ溜め息をつき、依頼書のコピーに見入っていた。

「ナガサワホールディングスは、山形に本社を構えて、東北一帯に飲食店のチェーンを展開している会社よ」

「そこと菅井と、どう繋がる? 」

「ナガサワホールディングスの筆頭株主が菅井、実質傘下にしているようなものね」

「もう、わけがわからない。冬優花ちゃん、どう思う? 」

鳴滝は、黙って二人の会話に聞き耳を立てていた齋藤冬優花へ目を向けた。

「私に分かるわけないじゃないですか」

「だよな」

「なんかその言い方むかつくんですけど」

目を丸くして抗議する冬優花に構わず、鳴滝は再びコピーへと目を落とす。守屋茜は仁王立ちのままだ。

「こちらは守秘義務糞食らえで全部曝け出したわ。次はあなたの番よ」

まさに文字通り、仁王と化した守屋茜が鳴滝へと迫る。
その鬼神の如き眼差しを受け流し、鳴滝は齋藤冬優花へと向き直るが、身内であるはずの冬優花もまた鬼神と化していた。

「わかったわかった。俺が悪かったよ」

鳴滝はそう言って立ち上がると、胸の前でひとつ手を打った

「そうだ。久しぶりに三人で呑みに行こう」

「またうやむやにして逃げるつもり? 」

「違うよ。呑まなきゃやってやれないだろ」

「あの……」

そこで冬優花が遠慮がちに小さく手を挙げた。

「鈴木さんがまだ帰ってないんですけど」

「鈴木さんか……またどこかに入り浸ってるんだろう。ほっとけ」

「その気になればどこでも寝れますもんね」

長沢の履歴書と依頼書のコピーを自らのデスクへと放り投げ、事務所を出ようとした鳴滝の目に、見慣れない黄色い物体が止まった。

「なんだよ、このぬいぐるみ」

鳴滝が手に取ったそれは、円筒形の頭に渦巻きの模様があり、その下に小さな瞳の顔がある人型の黄色いぬいぐるみだった。

「ああ、それは長沢君の忘れ物です。乙女ですよね」

「そっか……」

それだけ言うと、鳴滝は先に事務所を出た。

「おやすみなさい。お嬢様」

守屋茜は意味ありげな口調でぬいぐるみに語りかけ、鳴滝に続く。冬優花は慌てて事務所に鍵をかけて二人の後を追った。
その時、鳴滝探偵事務所の灯りが消えるのを見上げていたひとりの女が、通りの片隅でその耳からそっとイヤホンを外した。
街の灯りの届かない闇よりも深く黒いゴシックロリータに身を包んだ女は、長い髪を夜風になびかせながら歩き出す。

「え?車で行かないんですか? 」

冬優花の無意味に大きな声が聞こえて来た。

「当たり前だろう。呑みに行くんだぞ。それにすぐそこのあの店だぜ」

「ええぇ、またあの店ですかぁ」

不満に更に声を大にする冬優花の隣で、守屋茜だけが黒の女の後ろ姿を目で追っていた。