文:にゃんく
TOP絵:にゃん子
本文挿絵:humi humi
気持ちのよい朝。ちゅんちゅん雀の鳴き声が聞こえてる。此処は四階か五階くらいの高さなんだろう、格子状の窓外にはつぼみの開いた桜の木々が見下ろせる。知らないあいだに、此処にも春がやって来ていたみたい。
あたしはスプリングの効いた、ふわふわのベッドのうえで寝ている。真っ白のシーツが目に眩しいくらい。
まだ夢の感触があたまのなかに残っていた。
あの人からネックレスをプレゼントされた。
「かならず逢いに行くよ」
と彼は言っていた。
別れ際、彼はあたしの頬にキスをした。あたしたちは笑顔でいつまでも、手を振っていた。お互いの姿が見えなくなるまで。
そろそろ軀を起こそうとしていると仕切りのカーテンのあいだから、四十がらみの栗色の巻き毛の女の人が顔を覗かせた。
「大丈夫? ついさっきまで、ずいぶん魘されていたから」
魘されてた? こんなに清々しい朝なのに?
「そうなの?」
その人はあたしに慈しむような視線をそそいでいる。恥ずかしくなって目をそらすと、
「そうだわ、喉かわいたでしょ? 何か飲みたいものある?」
と言った。
そもそもこの人は誰なんだろう? とあたしは思った。ずいぶん親しげな口調だから、この人はあたしのことを知っているのだろう。でも、あたしの方には、こころ当たりがない。誰ですか? と言うのも失礼のような気がしたから、そのことについては黙っていることにした。あたしはコーラが飲みたかったけれど、知らない人にそれを買って来てもらうことを頼むのは、さすがに思いとどまった。
「いらないわ。ありがとう」
と言うと、女の人は笑顔で「そう」と言った。
「わたし、お手洗いに行って来ます」
カーテンをしめて、女の人は姿を消した。
部屋の中から誰かの咳き込む声が聞こえた。痰のからまった、苦しそうな咳を立て続けにしている。お爺さんの声みたいだ。その咳は、確実に、あたしが今いる同じ部屋のなかから聞こえている。
あたしはベッドのうえで、ゆっくりと軀を起こした。そして灰色の布に手を伸ばし、カーテンをすこし開けた。
右手の方にドアがあり、あたしのと同じ右向きにベッドの頭が置かれている。そのうえに、八十がらみのお爺さんが横になっていた。お爺さんは白髪で、老衰著しかった。まだ咳をしている。この部屋は十二畳ほどの長方形の狭い部屋で、そのなかにお爺さんとあたしのベッドが詰め込まれ、真ん中にカーテンでおざなりのように間仕切りがされている。あたしはカーテンの隙間をそっと元通り閉めた。
この部屋は何処だろう? あのお爺さんは、誰だろう?
カーテンがそっと開けられて、白衣の看護婦さんが這入って来た。まだ学校を卒業したばかりという感じの、とびきり若くて幼い顔立ちのかわいらしい看護婦さんは、白帽の下から、ツインテールにしたきれいな黒髪を垂らしている。彼女は手にささげ持った、白いごはんが盛られたお茶碗とお味噌汁を乗せたトレイを、あたしのベッドの傍らのテーブルに置いた。看護婦さんからは、ほんのりと、香水のにおいが漂ってきた。よく見ると、付け睫毛もしている。
あたしはがっかりして言った。
「パンじゃないのね」
お腹はそれほど空いていなかったし、ご飯みたいな重たいものは食べたくない感じだったのだ。
看護婦さんは冷たいような表情をすこしも崩さずに言った
「食事は献立表で決められていますから。ワガママ言わないで、ちゃんと食べてくださいね」
同年代のそのかわいらしい看護婦さんと、あたしは友達になりたかったのだけれど、看護婦さんのほうは、あまりあたしと関わり合いになりたくないみたいだった。すぐにもこの部屋から出て行きたそうにしていて、すでに向こう側にまわりカーテンを閉めようとしている。
「ねえ、あたしのママ、来ていますか?」
とあたしは引きとめるように、訊いてみた。ママは一度だけだけれど、この病院にお見舞いに来てくれていた。そろそろママが二度めのお見舞いに来ることになっていたのだ。自分が知らないお部屋で寝かせられていることについて、あたしはママにその理由をおしえてもらいたかったのだ。
看護婦さんは息をとめ、目を瞠り、吃驚したような顔をした。それはまるであたしが口にだしてはいけない言葉を口走ったみたいな表情だった。
「あなたのママは、……いません」
看護婦さんはそう言うと、カーテンをそのままにして、引き締まった小ぶりのお尻を左右にふりふりしながら、部屋から出て行こうとした。いません? いませんというのはどういうことだろうとあたしは思った。此処にはまだ来ていないということだろうか。だったら、実家にはいるのだろうから、受付の事務の人にお願いして、電話をかけさせてもらえるよう、その手続きをしてほしいの。あたしが言っているのは、そういう意味なの。
「じゃあ、ママに電話するわ」
とあたしは看護婦さんの背中に急いで、それだけのことばを投げかけた。看護婦さんの横顔のなかで、目だけがきょろきょろ動いている。
「何度も言わせないで。あなたにママは、……いません」
看護婦さんはあたしを見ないでそう言い捨てると、開けかけていたドアに軀をぶっつけながら、慌てたように廊下に出て行ってしまった。
あたしは肩をすくめて、サイドテーブルの食事に目をおとした。
ご飯は黄色がかっていて、何だか臭ってきそうだった。あたしはやっぱりパンがよかったなあと思いながらも、食べないと看護婦さんに怒られそうだから、仕方なく、ベッドに腰かけながら箸を摑んで、食べはじめた。べとつく餅みたいなご飯だった。お味噌汁に、具は油揚げの一センチにも満たない切れ端が、申し訳程度に入っているだけだった。いつまでも咀嚼がおわらないごはんを口のなかに含みながら、あたしは看護婦さんが口にした言葉を、口のなかのご飯のように、何度も反芻していた。
「あなたにママは、……いません」
看護婦さんは確かにそうおっしゃった。それは文字通り解釈すると、あたしにお母さんはいない、つまり、はじめからいなかったか、あたしを産んでから何処かに出奔してしまった、という意味にとれる。でも、現実は、そのどちらでもない。あたしのお母さんは何処にも行っていないし、つい先日会って話したばかりなんだから。
ご飯を半分残した。なんだか胸がいっぱいになってしまった。
看護婦さんは忙しかったから、たぶん言い間違いをしたのだろう。
はじめの予定では、入院は一週間ほどだっていう話だったから、それから計算すると、すでに退院していてもいい頃だった。きっと看護婦さんも、お医者さんも、あたしが言い出さないものだから、忙しさにかまけて忘れているのだろう。次に看護婦さんがやって来たら、聞いてみよう。
そして退院したら、すぐにでも大学に行こうと思った。授業はすでにはじまっている。単位、取らなくちゃ。何事も、はじめが肝心なんだから。
そんなことを考えていると、
カツ、カツ、カツ、
という誰かの、床を歩いてくる音が聞こえて来て、ドアが開いた。さっきの栗色毛の女の人で、開いたカーテン越しに、その人は「あら」と言った。
「ダメじゃない、お母様。ご飯また残して。ちゃんと食べなきゃ」
お母様? この人は頭が変なのではなかろうか。そう思って返す言葉もなく女の人の顔を見つめていると、相部屋のお爺さんの咳がますます高まって、あたしも、その女の人も振り返って、あたしたちは固まってしまった。咳はさっきからずっと続いていたのだ、しかもだんだん大きくなっている、そしてますます苦しそうになるばかりだ。
ごほっ、ごほっ、
ごほごほごほ、
おえー、おえー、おえー、
ごぼばっ。
「ちょっと大丈夫?」
そのうち廊下からばたばたと人数が駆けつけて来る音が聞こえて、ドアが
バタムッ!
と思い切り打ちつけられた。看護婦さん二人と、白衣の前をはだけたお医者さんが、姿をあらわした。
「まずいな」
と三十歳代の男のお医者さんは眉をひそめた。
「吸引器をはやく」
さっきご飯を持って来てくれた幼顔の看護婦さんが胸に掃除機を捧げ持っていて、もうひとりのモデルのようにスタイルのいい看護婦さんが吸引口のほうを小脇に抱えていた。掃除機の先っぽは、口腔内に入れやすいよう、先端が細長いかたちに改造されていて、スタイルのいい看護婦さんがそれをお爺ちゃんの口の中に差し入れると、まもなくギュウウウウウンという吸引する音が部屋のなかに響いた。
お爺さんは白目を剥いていて、吸引器の立てるがぼがぼいう音がうるさかったけれど、意識はまったく失われているみたいだった。
「吸引器、ダメか」
そう言うと、お医者さんは、手で掃除機に下がれの合図をした。そして「採血」と言った。
すると看護婦さんたちは掃除機を床に置いた。幼顔の看護婦さんはおもむろに白衣のポッケから注射器を取りだすと、お爺さんの腕をまくって注射針を刺そうとしている。けれども、何処に刺すべきか逡巡している様子で、目を見開いて顔を腕に近付けたり遠ざけたりしている。
「早く、採血を」
お医者さんがすこし、イライラして言った。幼顔の看護婦さんが、目を瞑って、えい、というふうに、注射針をお爺さんの腕に刺した。
「そこじゃない!」
とお医者さんが叫んだ。
「どいて!」
と言って、スタイル抜群の方の看護婦さんが幼顔の看護婦さんから注射器を奪い取った。
スタイル抜群の看護婦さんの胸元は、大きな胸を強調するようにざっくり開いている。彼女はしばしの間、注射針を蛍光灯の光で消毒するように、顔の前で掲げていたが、お爺さんの浴衣の胸元をはだけると、意を決したように心臓のあたりにひと思いにずぶっと針を突き刺した。ぎゅうっと力を込めて、真っ赤な血を時間をかけてゆっくり注射器のなかに吸い上げている。その作業をしているあいだに、機械のピーーーッという音が聞こえてきて、お医者さまはガクッと首を垂れて、ベッドに片手をついた。お医者様がお爺さんの脈をとっている。
「ご臨終だ」
と彼は目をつむり、聞き取れないほどの小声で言った。「……時間は?」
心臓に注射針が突き立ったまま、それを抜きもしないでグラマラスな看護婦さんが腕時計を見ながら、「九時十一分です」
と答えた。
お爺さんの顔のうえに白い布が被せられ、幼顔の方の看護婦さんが部屋の外からストレッチャーを運び込んで来た。お爺さんを三人がかりでストレッチャーに移すと、スタイル抜群の看護婦さんが言った。
「先生」
「なんだね、こんな時に?」
とお医者様が言った。
「腰のあたりが疼くんですけれど……」
と変に色っぽい口調で看護婦さんが言った。お医者様は看護婦さんの胸に視線を落としたあと、
「仕方ないな」
と困ったように言った。でも、内心はそんなでもなさそうな様子で、
「あとで診てあげる。これを運んだら、シャワーしてから、例の個室で待機していなさい」
グラマラスな看護婦さんが身をくねらせ、ねとつくような笑みを漏らして返事を返そうとする前に、
「センセエ」
と幼顔の看護婦さんが話に割り込んだ。
「今度は、いったい何だね?」
「私も、太股のうえあたりが、なんだか熱っぽいんですけど」
お医者様は迷惑そうにしていたが、内心は昂奮を抑えきれないというふうに、
「よしよし、わかったわかったよ。すぐに診れるよう、君はスカートを脱いだ体勢で、Sの部屋で待っていなさい」
はぁい、とふたりの看護婦は艶めかしい返事をすると、事務的にストレッチャーをふたり前後して押しながら医者とともに部屋を出て行った。
彼らが出て行くと、部屋のなかはがらんとした。時計の音がチクタク、チクタク聞こえるくらい、静かだった。
「何なの、あの人たち」
とあたしは独りごちた。
「顔とスタイルだけで採用したような、看護婦さんたちね」
しばらくすると、
「気にしないで」
と栗色毛の女が囁くように言った。
「そんなの何処にでもある話よ。お母様が目くじら立てても、どうにもならないわ。それに、衰弱していたのよ、あのお爺さん。看護婦さんが美人でも、美人でなくても、誰にも死ぬことなんて、とめられやしないんだから」
あたしは髪を掻きあげた。指のあいだに、白髪が一本絡みついた。不吉なような純白だった。やだ、真っ白。あたしは手をふった。白髪が年末の侘びしい雪のようにひらひらと床のうえに落ちた。
「長く入院していたのかしら、お爺ちゃん」
とあたしが言うと、女はあたしを一瞥し、憐れな生き物に同情するように目を細めた。
「いいえ、キチ子お母様と同じ、一週間前にこの病院にきたのよ」
と女は言った。
その言葉に何か意味があるのだろうか。そこには重大な隠された予言が含まれているような気もするし、ゴミのように吐き捨てられていく日常の、ありふれた単なる会話の断片に過ぎないような気もした。
(続↓命泣組曲②へ)
http://ameblo.jp/nyankodoo/entry-12150943341.html
○本文の挿絵を描いていただいたのは、イラストレーター&作家の、humi humi(ふみふみ)さんです。
息せき切って、病室へ駆けこんでくる医者と看護婦を、イメージ通りに描いていただきました!
humi humiさんへの絵のご注文は、ココナラからできます。
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