瞑想猫(にゃんこ先生改め)のブログ

2007.9.23 アベルUN創設大会(父母様の隣・墨汁を持つ郭錠煥元会長、その隣が三男・顯進様 写真クリックで拡大)

2007.5.4 天宙新文明開闢 大阪大会当日(お母様と顯進様)

 

BGM

Yulianna Avdeeva – Chopin: Andante spianato & Grande Polonaise Brillante E flat major Op. 22

 

文先生が誕生した1920年当時、生家の住所は「定州郡徳達面徳星洞」です。

1931年、三つの面(徳達、伊彦、阿耳浦)が合併した際、徳達面の「徳」と伊彦面の「彦」の二文字をとって、「徳彦面」という地名になりました。

なお、徳星洞というのは行政区分上の名称で、一般的には徳興洞、または上思里と呼ばれていました。

現在の北朝鮮では、1952年以降、文先生の故郷は地名が改められ、「定州郡圓峰里」となっています。

 

文先生の生家があった上思里部落について、「定州郡誌」の「猫頭山遊撃戦記」に次のような記事が出ています。

ー--この猫頭山のふもとにある農村(上思里部落)は、170余戸であるが、ここは乙巳独立宣言書に署名した33人の1人、李明龍長老をはじめ、文潤國牧師、その他独立闘士が多く住んでいたところで、またキリスト教徒が多いところで有名であった。ー--

 

文先生が生まれ、幼少年期を過ごした上思里部落は、山紫水明の地であり、キリスト教徒の愛国者や独立運動家をたくさん輩出したところでした。

1945年の解放後も上思里部落は思想的に共産党を受け容れなかったことから、「38度線以南部落」と言われたといいます。

 

文先生がまだ乳飲み子の頃、定州から宣川に行く汽車の中でのことです。

車内を通り過ぎる男の人が、みな赤ん坊を抱いている母親(金慶継さん・忠母様)の横にきて、「その子を一度抱かせてください」と話しかけてきました。

「この赤ん坊を一度抱けば、わたしのような運勢のないものにも運が回ってくるような気がする。」

 

哀願するような彼らの言葉をききながら、慶継さんは思いました。

「この子は将来大きくなって世界の人の前に崇められるようになり、また世界的に歓迎される運勢を宿している子供だ」

金慶継さんは13人の子を産み、8人を無事育てましたが、その中で文少年を一族を代表した子供として愛し、精誠を尽くしました。

 

息子(龍明少年)のために犠牲になることが、自分の使命であるかのようにして文少年を愛されたのです。

慶継さんの一番好きなことは文少年の話を聞くことでした。

 

文先生は霊界に行ったら、まず母親を探したいと言われています。忘れられない想い出が沢山あったはずです。

もちろん、文少年の他の子供たちにも母親として愛情を注ぎました。

嫁いでいく娘を見送りながら、病気に苦しむ息子のために寝食を忘れて看病する母親でした。

 

働き者の慶継さんは決して愚痴をこぼすことはありあせんでした。

ある日、文少年のところへ来てむくんだ足を見せました。文少年がその足にさわると、すーとへこんだといいます。

 

「そのような中でも子供たちのために苦労したことを恨まず、自分のために涙を流さず苦労した母親の姿が忘れられない」

文先生は母親を追憶してこう語っています。

辛いことも悲しいことも海のようなおおらかさで明るくふるまった慶継さん、賛美歌543番の「あの高いところを目指して」が好きな歌でした。

 

もちろん、母親の愛情を一身に受けていましたが、文少年が母親にまったく心配をかけなかったというわけではありません。

村の子供とけんかをし、鼻血を流して家に帰ってきたこともありますし、「これをしろと言っておいたのに遊んでばかりいて」と、母親から叱られることもありました。

 

母・慶継さんは従兄弟の文龍基少年にこうこぼしたといいます。

「お前は本当にいい子だ。龍明がお前のようであればどれほどいいだろうに」

1991年12月5日、文先生が40数年ぶりに故郷定州に戻り、両親の墓前にあいさつに行ったとき、実妹の文孝善さんが泣きながら、

「お父さん、お母さん、あれほど待っていた息子が帰ってきたのですから起きてください。なぜ返事がないのですか」

と叫び、居合わせた人々の涙を誘いました。

 

文先生はそのとき、

「神様の仕事をして、ただいま帰りました。生前に親孝行することができず、胸が痛みます。しかし、天におられて、私がしていることをご存知ですね」

と話しかけられたように、同行した人には聞こえたといいます。

 

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