2008.1.1 真の神の日アトラクション(お父様と三男・顯進様)
2006.5.5第2次UPFツアー・シカゴ(お母様と顯進様)
ショパン:練習曲(エチュード)op10:ポリーニ(p)
3.1独立運動において、歴史に名を残した人物に、文鮮明先生の大叔父にあたる文潤國牧師がいます。
潤國氏は1877年1月30日(陰暦)の生まれ、文禎フル氏(文先生の曾祖父)の三男です。
小さい頃から学問に秀で、長じてからは定州郡徳彦面の徳興義塾で漢文の教師になりました。
日韓併合の行われた1910年、朝鮮キリスト教長老会に入信。その後、1914年に平城長老神学校に入学し、卒業した1918年に徳興教会と蓮峰教会の牧師に任命されています。
徳興教会は文先生が少年時代に通った猫頭山(イエス様が霊的に現れて文先生に私のやり残したことをやり遂げてほしいといわれた現場)のふもとにある教会です。
1919年の3.1独立運動においては、独立宣言文の起草にも参与したといわれていますが、3月8日、定州で行われた示威闘争のリーダーの一人として、数千人の群衆の前で独立宣言をしています。
しかし、独立宣言をばらまきながら群衆と共に行進しているとき、定州の守備隊120人に包囲され、逮捕されます。
そのとき、槍で3回刺され気を失って死んだように倒れました。
ソウルの刑務所に収監されたあと、2年の懲役を言い渡されましたが、翌1920年4月28日、李王世子殿下と梨本宮方子女王殿下の婚儀による恩赦により、減刑となって出監しています。
いったんは、服役前の教会牧師に復職したものの、1927年50歳の時、定州の警察署から「甲種要視察人物」に指名され、日本警察の迫害、検査が厳しくなったので、やむなく牧師の職を退き、忠清南道のチク山に3年ほど隠棲しました。
さらに、半島東側の江原道江陵郡玉渓の地で、1945年の解放の年まで身を隠すことになったのです。
潤國氏は何かをやり始めれれば、徹底的に最後までやり抜く性格で、また座って話をすれば、一日中延々と続き、特に「三国志」の話ともなると終わることがなかったといいます。
出監した翌年、潤國氏は満州に住む金粛済牧師を通して独立軍資金7万円を上海臨時政府に差し出しています。
3千円もあれば、教会の礼拝堂がつくられた時代ですから、7万円は大金でした。
しかも、自分の財産はもちろんのこと、長兄(致國氏)の財産まで密かに売り払い、捻出したのです。
ところが、彼は独立運動の資金に充てたことを秘密にして、身内にすら本当のことを言いませんでしたから、一族からつまはじきにされました。
1945年の解放後、定州に帰ってきた潤國氏を迎える故郷の人々の目は冷たいものでした。
それでも、ついに一言の弁明もせず。1946年1月17日(陰暦)、静かに故郷を去っていきました。
70歳に近い年老いた妻と子供たち、そして親族の人々と涙で別れ、旅立ったのです。
半島の北半分は金日成を首班とした北朝鮮臨時人民委員会が樹立した直後のころです。
潤國氏は38度線を越えて南下していくにあたって、固い信念を持っていました。
「死しても共産党には屈せず」
彼はののちに、民権の伸長と維持を主義とする民権党んp創立メンバーとなるのですが、長い放浪生活の末に江原道チョン善郡北坪面長悦里の親戚の家に寄り、教員生活をしながら余生を送りました。
李承晩博士が大統領となったとき、警察署から二、三度、ヘリコプターを飛ばして、文潤國氏を長官か大臣に招聘しようとしたことがあります。その誘いに対して、
「政治と信仰は別だ」
との理由で一蹴したエピソードがのこされています。いかにも、一徹者らしい面目が躍如しています。
しかし、このとき潤國氏が閣僚の地位を得ていたら、神の摂理はまた異なったものになっていたはずです。
なぜなら、潤國氏を通して文鮮明先生が国家に影響をおよぼすことができたでしょうから。
文鮮明先生はこの大叔父についてこう語っています。
「李承晩博士や崔南善氏とも友人であり、旧学問に通じ、神学を学び、英語もよくできました。私よりももっと美男子でした。背も高く体格もがっしりとしており、大統領になるだろうと思えるほどでした。
1958年1月1日(陰暦)、潤國氏は南北の平和を祈りつつ生涯を閉じました。」
遺された子供たちの世話をしていた親族の文龍基氏に1968年、文潤國氏が夢に現れたことがきっかけとなり、生前の誤解が解かれ、1970年4月京畿道パ州郡積城面武建里に潤國氏の墳墓が建立されました。
石碑には「憂國志士南平文公潤國之墓」と刻まれています。
1977年12月、韓国独立運動の功労が国家に認められ、大統領表彰(第45638号)を受賞。
1990年12月、独立有委功勲章建国勲章愛族章(第1159号)を叙勲されました。



