2007.1.1 真の神の日(写真クリックで拡大表示)
BGM
Mozart - Piano Concerto No. 22 Es-dur KV482(ルドルフ・ブッフビンダー)
昨日9時より、実家からクルマで30分位のところにある、「そらの花畑 世羅高原 花の森」に行ってきました。今は、薔薇(イングリッシュ・ローズ)の見ごろです。心が癒されました。
12歳になる三毛猫・ミーコ
文先生、日本留学へ出発
神の召命(イエス様からの嘆願)を受けた1935年から9年間について、文先生はこう語られています。
「私はいつも全能な神様、そしてイエス様と共に暮らしていました。数回にわたって霊界に入ってみたことがあります。神様は少しずつ驚くべき真理を教えてくださったのです。」
ソウルでの1938年からの3年間の学生生活は、文青年にとって、真理を探究し、神様とイエス様の心情と事情をみずからの血肉とするための期間でもありました。「人間の責任分担」「間接主管圏(原理結果主管圏)「直接主管圏」といった、統一原理の核心となることばを、文青年は身もだえし、命がけで闘って勝ち取ったのでした。
神様は、数十億年の歳月を費やして宇宙を創造され、最後に神様の息子・娘として、人類始祖であるアダムとエバを創られたのです。
文青年は、そのときの神様の喜びと希望に満ちた心情を全身全霊で理解することができました。
また、彼らの堕落によって、神様がどれほど傷つき、ぬぐいきれない悲しみを負われたのかを知らされ、身もだえしながら泣きました。
長い年月を涙と嘆きのなかで、人類を導いてこられた神様の苦痛の心情、イエス様がイスラエル民族とその指導者たちの無知と不信によって、十字架にかけられていった無念を知って、神様を慰めることばもなかったのでした。
ソウルの1月は1年で最も寒い季節です。
1939年1月のソウルの平均気温は、-7.1度。マイナス20度以下の日も何日か記録されています。
井戸から水を汲み上げるとき、つるべに手がピタッとくっついてしまうこともあったほど。そうした極寒のなかでも文青年は火を炊かず、冬を過ごしました。
勉強していて、あまりにも寒いので、電球を布団のなかに入れ、そのまま眠ってしまい、やけどをしたこともあったそうです。
文青年がそういう寒さの中で火を用いなかったのは、神様の前に決意したことを成し遂げるための準備期間であったため、耐え忍んだのでした。
また、このころ、食べ物があまりなかったので、自然断食になったりしました。
文青年は李奇鳳さんの家では、4,5人の学生と一緒に自炊生活でした。
食事は毎日交代でつくります。
文青年とともに生活した、文昇龍氏によれば、このころの食事の献立はご飯と明太、それにイワシや豆腐の料理が多かったとのことです。
1941年2月25日、文青年は京城商工実務学校電気科を卒業しました。
日本に留学するために、3月31日午後2時10分、急行列車「ひかり」に乗って、ソウル駅から釜山に向かったのです。
汽車に乗ると文青年はすぐ涙がとめどなく流れてきたのでした。
オーバーを頭からかぶり、釜山駅に着くまでずっと泣き続けたのです。
日本の婦人が泣いている文青年を見て、
「お父さんかお母さんが亡くなられたのですか?そのような悲しみは、人間であれば、だれしも直面することではありませんか。
と同情して語りかけてこられたのでした。
しかし、そのときの文青年の胸は、国を愛する想いで張り裂けんばかりだったのです。
「この哀れな民族をいったいだれが救い、その将来に対して誰が責任をもつのか?」
文青年の目は腫れあがり、鼻も唇もむくんだように腫れていました。文青年は、いかなる愛国者よりも多くの涙を流したのです。
「わたしが戻ってくるまで、神様! この国を守ってください。」
4月1日午前2時40分、関釜連絡船に乗って、釜山ふ頭を離れる時、文青年は民族のために痛哭しながら祈りました。
祖国を離れたのは、21歳の春のことでした。




