2007.9.23 アベルUN創設大会(父母様の隣・墨汁を持つ郭錠煥元会長、その隣が三男・顯進様 写真クリックで拡大)

2007.5.4 天宙新文明開闢 大阪大会当日(お母様と顯進様)
BGM
Rafał Blechacz - Verbier Festival 2008 (LIVE)
はじめに(調べるほどに驚きの連続)
ソウルから北へ車で二時間ほど行ったところに、パジュ元殿墓地があります。
文鮮明先生の次男で昇華された、文興進様がここに眠っています。
韓国に留学しているあいだ、私は何度も足を運び、墓前で祈りを捧げました。
文先生の半生を記す、という長年の宿願を果たすにあたり、自らの非力を知るがゆえに、協力を乞う以外になかったのです。
「神様、私に文先生の真実の姿を書かせてください。その力をお与えください。また、歴史に名を残した文豪たちよ、私を応援してください。」
それまでに何度も同じ夢を見ました。夢の結論はいつも同じでした。
「準備不足だ!」
しかし、何をどう準備したらよいのかわからず、時間だけが過ぎていました。ところが、この本を書き始めてから、その夢はピタッと見なくなったのです。
私は神に祈りながらペンをとりました。筆を進めるにあたって、私が心がけたのはただ一点、
「歴史に文先生の歩まれた路程をいかに正確にのこすか」でした。
ですから、文先生の足跡や人物像を意図的に、また好意的に書こうと思ったことは一度もありません。事実だけをそのまま書きました。でなければ、歴史の重みに耐えられないからです。
最初に手掛けたのは、文先生の祖先と故郷(北朝鮮の平安北道定州郡)について調べることでした。
その中で次々と新しい発見がありました。何かに導かれるような感じで、驚きの連続でした。詳しくは本書で述べますが、定州は朝鮮半島で最も多くの秀才、愛国者、文化人を輩出した地域であり、また、キリスト教の栄えた地のひとつでもあったのです。
文先生の誕生される前年の1919年、朝鮮半島で全国的に「3.1独立万歳運動」が起きましたが(文先生が受胎されたタイミング)
定州はそのとき最も大きな被害を受けた場所のひとつでもありました。
「人類のメシア(救世主)が朝鮮半島に誕生するならば、この定州以外にはありえない」と、確信するに至ったのです。定州に関する一冊の本を探すために、二年間を費やすこともありました。
また、だれの紹介もないところから生き証人を探しあてて、話を聞きだすのは簡単ではありませんでした。
それでも、文先生の生家の隣に住んでいた三人の親族、文龍善、文昇龍、文龍基の各氏には何度も合って、文先生の幼少時代について聞くことができました。
「もう、あなたには話すことはない」と言われるほど、根掘り葉掘り聞きだし、インタビューの総計は20時間を超えていました。
取材にあたって、最も難しさを感じたのは、親族の話でも食い違うことがあり、時には同一人物でも、以前語ったことと異なったりすることがあることです。文先生の膨大な説教集の中にも、時には相違点があります。
そうした、一つひとつについて照らし合わせ、事実を確定していく作業は難航をきわめました。
文先生に関する本は、日本でもすでに何冊かでていますが、そこからは参考にしませんでした。自分で確認しなければ気が済まなかったので、すべて、直接インタビューしたものか、韓国語の原本から採ったものです。
文献は、ソウルではおもに国立中央図書館、日本では国会図書館に足しげく通って調べました。涙を流さずに読んだことがありません。いまにして思えば、多くの涙を流してこられた文先生の半生を書くには、私自身、その万分の一でも涙を流さなければ書けなかったでしょう。
ある日、夢の中に文先生が現れました。私は文先生の半生を書いていることを報告して、色紙に「聖地定州」と書いていただきたいとお願いすると、快く引き受けてくださり、毛筆で書かれた文字の力強さに驚いたところで目が覚めたのでした。
今年(1995年)の初夢も同じ内容でしたが、今度はペンで「聖地定州」と、四、五回書いてくださったのです。
1991年12月5日、文先生が四十数年ぶりに故郷定州に還られた折、生家の前にたたずんで、
「ここは聖地にならなければいけない」
と、ぽつりと語られたのです。私はその話を聞いて、すぐ本のタイトルを「聖地定州」と決めました。
本書を出版するにあたり、多くに方からたいへんお世話になりました。また多くの方から協力を仰ぎました。心から感謝申し上げます。
なお、本書は「中和新聞」に連載された「聖地定州」(1992年10月1日~1994年10月1日)を一部加筆し編集したもです。
本書を文興進様にささげます。
1995年5月1日 著者・武田吉郎

