瞑想猫のブログ(主の御言を地に落さないために)

2007.5.21天宙新文明開闢ニューヨーク(お母様と三男・顯進様)

瞑想猫のブログ-2007.5.23.2

2007.5.23 天宙平和神文明開闢 米・ボストン大会当日(お父様と顯進様)

 

BGM

임동혁(DongHyek Lim) - J.S.Bach / Goldberg variations BWV988

 

我々の人生は、我々自身ではない別の本体(神様)を中心としている。そして、我々は、その中心の対象として完成しなければならない。それが理想であり幸福の基本である。人は、神様の対象となることを基本として創造された。それゆえ、 神様が人に要求されることは、神様に対して、完全な対象としての価値を持つことである。

 

この要求は、心を通して、力として作用する原理的な要素であり、この要素によって、皆がつながっているのである。従って、誰もが完全な対象になろうとする共通の目的を持っている。 自分が神様の完全な対象となり、さらに、自分の周囲の存在を相対とし、それらを授受の対象にしてこそ、神様の対象としての本来の価値を持つようになる。これが絶対価値である。こうして、神様と神様の対象となった自分と、自分の対象によって、三位一体の関係を築くことが、本来の創造原理である。 

 

この原理の上に立つためには、まず自分の肉身が良心を指向していなければならず、次に神様に対して相対的立場を取り、さらに、神様と授受することのできる対象となって、完全に神様と一つにならなければならない。これが、神様が臨在することのできる創造原理の基盤となるのであり、この基盤を立てることが、人の最高の理想となっている。そこから幸福や喜びなどの全てが始まるのである。

 

良心と肉身を一つにすべきである 

人の最高の喜びとは、神様と共にあることであり、また、原理によって万事を理解することである。そこに到達したとすれば、そこが求めていた境地であると言える。 つまり、神様の創造原理や復帰原理などを知ることができれば、その時から希望を持って、神様と共に理想に向かうことができ、また、幸福を感じることができるようになるのである。

 

良心と肉身が一つになり、肉身が神様の要求を満たすことができたならば、そのときに、その要求を原理的に成就させたということになる。これは、神様が創造された本来のかたちであり、善なる行いであるため、そのときには、神様が臨在できるようになっているのである。これを継続することのできる生活が、理想の生活である。 善なるところには、神様が共にあり、そこでは神様から幸福の要素を受けることができる。しかし、人は善なるところを失ってしまった。従って、それを探し求めなければならない。良心作用によってその目的を果たそうとせずにはいられないのである。

 

各自が唯一無二の存在である 

人は皆、唯一無二の性質を持つ個性真理体である。それゆえ、神様の対象となり、 神様と一つになれば、その人だけが持つ個性を生かすことができるのである。人がそのような存在として完成すれば、その基盤の上に、成就すべき目的が与えられる。 その路程は原理的であるため、善なるものである。このような位置にあるとすれば、 それは、神様と相通じることのできる幸福な立場であると言える。 また、人が自己中心的になりやすいのは、自分の個性を中心として、理想を実現しようとするためである。それゆえ、人は堕落しなかったとしても、自己中心的であ ることは事実であり、それは、自分が善なる存在であるという本心の現れなのである。 しかし、人は完成すれば、全体目的のために協力するようになっている。

 

神様の対象となっている人が最も重要である

 神様と人が一つになれば、神様は人を通して、万物世界を一つにすることができ、 さらには、天宙までも一つにすることができるのである。このように人の立場が最も重要であり、人が神様の対象であってこそ、神様は理想を展開し、善を現すことができるのである。 また、人の上には天、下には万物、右には家庭、左には社会があるため、人によってのみ、それらが一つになる円和世界を成すことができる。その世界こそ、神様が理想とされる世界である。それゆえ、人は神様の対象として善を行い、それを家庭や事業体へと展開しなければならない。そうしてこそ、神様の対象として完成した者だと言えるのである。

 

神様は、世界の全ての人々がそのようになることを望まれている。世界に善が展開されなければ、神様が世界を創造された意味は無いのである。 神様が望まれていることは、性が分立され、個性が完成し、神様の対象となる過程 を通して人が完成することである。この完成した人によって、神様と全天宙が一つになれば、それが善の世界となる。つまり、神様は神様の対象となった人を通してその相対である全天宙に、善を展開しようとされるのである。 

 

人は神様と天宙万物の間に位置するため、第一存在は神様、第二存在は人、第三存在は天宙万物となる。神様は、一人一人の個性によって善を展開し、天宙万物を主管しようとされる。従って、人の存在しない天宙万物は有り得ない。

つまり、ローマ人への手紙 8 章 19 節に「被造物は、実に切なる思いで神の子たちの出現を待ち望んでいる」と記されているのは、天宙万物の中心であるべき人間が堕落したからである。これを復帰しようとするのが、神様の摂理である。 以上のような原理を知った我々にとって、神様の相対となり得ることがどれほど有難いことであろうか。さらに、神様の対象となることができれば、神様の願いが我々の生きる目的となるのである。

 

人は、まず、神様の相対とならなければならない。このような立場に立つとき、「神様は人を利用するのか」と考えてはならない。神様が人に要求されることは、神様の目的を達成するためではあるが、それは結局、人に対象の位置を与えて、人を完成させるためなのである。 このように、神様は人に対象の位置を与えようとされるが、その位置に立って、 神様と授受できる者がまだいないのである。それは神様にとってどれほど悲しいことであろうか。それゆえ、神様は対象を求めておられるのである。

 

神様の愛は人を通して現れる 

人も神様と同じように、第二の自分となる対象を求めようとする。つまり、自分の子女、夫や妻、事業体や社会を対象として愛することが喜びとなるのである。 神様と共にあれば、神様から愛を受けることができる。天には愛を与えて下さる 神様が居られ、地には愛を与えることのできる者がいる。これがどれほど幸福なことであろうか。愛を受け、愛を与えることができるようになった者は、いつでも喜びを感じることができる。父母が子女を愛し、夫婦が互いを愛するのは、原理の現れなのである。 

 

神様を発電所とするならば、人は受けて与える変電所や配電所のような存在であり、万物は需要地のようなものである。つまり、人がいなければ万物は愛を受けることができない。また、人が神様から受けた愛は、減少させることなく、そのまま万物に与えることが理想である。それは、電気の場合に、損失の無いことが理想であるのと同様である。損失は電線の抵抗などによって左右され、損失が多ければ、多くの電力を無駄に消耗することになる。人は、そのような損失をもたらす電線の抵抗のような肉身を持っている。その肉身が完全に良心と一つになれば、損失は無いが、 そうでなければ、損失をもたらすことになる。もし、人に損失が無く、対象に対して愛を完全に与えることができるならば、対象が愛を返すときにも損失は生じない。そうであれば、既に原理が復帰されているということになる。神様から求められていることは、完全に受け、完全に与え、完全に返すということであり、そうすることによって、善を継続することができるのである。つまり、神様のみ旨がよく成就するかどうかは、人にかかっているのである。

 

愛と美を授受して一つになることは善である 

神様は、生命の中心であり、喜びの中心である。人が最も求めているものは、神様の愛であり、それを受けるときに、喜びが生まれ、幸福となり、神様も喜ばれるのである。しかし、神様から愛を受けようとすれば、その愛を受けることのできる美がなければならない。神様は美があってこそ、完全な愛を与えることができるのである。 つまり、神様の愛を受ける人々は、神様にとって美の存在である。愛をプラスとすれば、美はマイナスとなる。この愛と美を完全に授受し、神様と人が一つになることは、 善なることである。 神様がイエス様を送られたのは、イエス様を通して、神様の愛を現すためであった。こうして、神様は人々に愛を与えようとされたのである。それゆえ、神様は愛を受けることのできる人、即ち、美の存在を探し求めてこられたのである。 また夫婦間において、夫が妻に愛を与え、妻が夫に美を返し、夫婦が一つになれば、それもまた善である。このように、対象原理が完成すれば、善の繁殖が始まるのである。

 

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