2007.5.21天宙新文明開闢ニューヨーク(お母様と三男・顯進様)
2006.5.5第2次UPFツアー・シカゴ(お母様と顯進様)
BGM
Rafał Blechacz - Verbier Festival 2008 (LIVE)
天宙の根本原理 神様と人間は親子の関係
「One Family Under God」で宗教・国籍・人種・文化・地獄と天国の国境線を撤廃して統一し、地上天国・天上天国の建設を標榜する、家庭連合に対して、無宗教の団体・日本政府が裁いて、解散命令を請求する資格が果たしてあるのでしょうか?
岸田首相を始めとして、政府関係者は、説教集『真の神様』を訓読して心を穏やかにして戴きたいと思います。
堕落後の旧約時代に、モーセなどに現れた律法を中心にした、復讐を正当化し、嫉妬深く、カナン七族を残らず滅ぼせとまで言った、裁き・審判・憤怒する恐れる神とは天使であった。
☆モーセにとって主なる神は恐ろしい恐怖の神、復讐の神、嫉妬の神として現れ、僕の僕となった人間を律法でむち打ち、法度に反すれば容赦なく刑罰を加えた時代が旧約時代です。旧約の主なる神の属性を見ると、嫉妬心の強い神として「私」以外の他の神に仕えるならば恐ろしく嫉妬される神様であり、イスラエル民族にカナン七族を残らず滅ぼせと命じた残忍な神様であり、律法と法度に反したイスラエルの民を目の前で倒した無慈悲な神様です。宇宙を創造された愛の神様であるのに、このように嫉妬と復讐と恐怖心とカナン七族を無慈悲にも滅ぼすという、こんな性稟があっていいのでしょうか。旧約時代は天使が仲保となって神様に代わった時代だからです。(真の神様 3-2-1)
説教集 真の神様
第三章 復帰摂理歴史と神観の変化
一 旧約時代、神様は天使であった
2.旧約時代は天使が神様に代わって役事した
☆アブラハムに現れた主なる神も天使の姿で現れました。本来、神様は無形の神様であり、目に見えない神様なのですが、創世記では三人が神様として現れ、二人はソドム、ゴモラの審判をするために行き、残る一人は神様となってアブラハムと対話する場面が出てきます(創世記一八・一~一八)しかし、彼らも神様の遣わした天使であり、天使を立てて方便として神様のように摂理されたのです。それを知らなかったのです。
二 主なる神の正体
1.主なる神の属性
☆モーセの前にも神様は何度か現れます。ホレブ山で柴の中の炎のうちに現れモーセを召命し、シナイ山の頂でも現れてモーセに十戒を与えました。今日までモーセの前に現れた主なる神が天使であるとは知らずにいますが、新約聖書の使徒行伝第七章を隅々まで見ると、天使だと記録されています。「四十年たった時、シナイ山の荒野において、み使が柴の燃える炎の中でモーセに現れた。あなた方は、み使いたちによって伝えられた律法を受けたのに、それを守ることをしなかった」。このように旧約に現れた主なる神とは天使であって、神様そのものではありません。旧約時代は僕の時代です。息子ではない僕に、父として神様が現れることはできないのです。
『何々に対する神様の怒り』という概念はないということを御言より指摘したいと思います。
☆この世の親も自分の息子、娘が罪を犯して絞首刑に処されることになったとき、その子が死ぬことを願う親はいません。自分の思いどおりに子を助けることができるとすれば、百回でも千回でも助けてやりたいのが父母の心です。母親の気持ちはなおさらのことでしょう。堕落した世界の女性の心もそうであるのに、全知全能なる神様がいったい何ゆえに終わりの日になって審判をしなければならないのでしょうか。どうして神様が許してくださることができないのでしょうか。これです。神様はどれほど愛しておられるでしょうか。イエス様が七十回ずつ七回許すとすれば、神様は七十回ずつ七千回以上許すはずです。神様の心はそうなのです。(真の神様 4章1-1)
☆人間が罪を犯したからといって「お前、なぜ罪を犯したのか」とおっしゃるばかりの神様ではありません。罪を犯した事情をよく知っていらっしゃる神様です。御自身の事情は考えずに、人間の事情を知ってくださろうとする神様です。悲しい者には悲しい事情をもって訪ねてこられ、苦痛を受けている者には苦痛の事情をもって訪ねてこられ、悔しくやるせない者には悔しくやるせない事情をもって訪ねてこられました。皆さんは神様とどれだけ事情を通じたことがありますか。神様は私たちの生活環境の中にもそのように訪ねてこられました。それだけではなく、心情をもって訪ねてこられました。お前が私を裏切ったとしても、私はお前の父親だという心があったがゆえに、六千年という歳月を訪ねてこられたのです。(真の神様 4章 1-2)
☆親不孝者をもった親(神様)は、その親不孝者によって拘束されるということを知らなければなりません。その親を解放するためには、親不孝をした以上の孝行を尽くさなければなりません。それだけでなく、大衆の前で公認(長子権復帰→自然屈服)されなければなりません。そうして初めて過去の罪を洗い流すことができるのです。これが天理です。同じ道理です。「先生だけのために……」というのは必要ありません。(真の神様 4章 3-1)
☆神様には国境がないので、「恨みを晴らしなさい」と言われることはできません。なぜならば、その言葉の中には国境が内在しているからです。しかし、怨讐を愛して一つになれば、国境が崩れていくのです。それゆえに、神様の戦略戦術は、「怨讐を愛しなさい」という言葉になるのです。(国境線撤廃と世界平和 2000.8.18)
人間の生と霊魂の世界
4-六 審判
1.神様には怨讐の概念がない
「神様が審判主」という論理は神様にはないのです。もし、恨みを晴らすという概念があれば、今後神様の理想世界が出現しません。それゆえに、神様には火の審判という概念がありません。怨讐の概念がないので、アベルを立てカインを強制ではなく、自然に屈服させるのです。
神様は誰も打つことができません。愛の理想をもって創造した神様が、愛の理想を実践しようという神様が、審判の鉄棒をもって打つことはできないのです。神様は打つことができません。なぜですか。創造する時に愛の理想をもって創造したので、その理想が実現されなくても打てないのです。もし、打つようなことが起こったとしたら、打つ伝統、打つ習慣を残しておいては、これ、を解く道(カイン圏を自然屈服→地獄解放)がありません。今日、習慣性という言葉もあるでしょう。それゆえに、絶対的な神様は打たなくても絶対的な教化ができなければなりません。
神様は歴史始まって以来、闘いながら打たれて奪ってくる作戦をします。神様が先に打つことができません。神様が先に打つことができるという論理を立てれば、審判できるという原則を神様が立てたという論理が起こります。善と悪を分別すべき責任を神様が負っているという時、善悪の概念が神様自体内にあったという論理が展開されるために二元論に落ちるのです。それゆえに、神様は打つことができないのです。
親は自分の愛する子女が病気になった時は幸福ではありません。神様が、今日の世界人類が亡国の種となり、地獄の門に向かって垂直に落ちる実情を見ながら胸が痛まずに「お前は審判を受けて滅びていくのだなあ」と言って喜ぶ方ならば、そのような神様は雷に打たれなければなりません。父母の立場を代表した理想の神様であるがゆえに、その実情を見てじっとしていられないのです。国の法を無視してでも子女を助けたい父母の心情が隠れていることを考えると、神様も同じだというのです。
サタンさえいなければ、人間を許して助けてあげたいにもかかわらず、サタンの讒訴から抜け出すことができないので、切ない心情をもちながらもそれに順応せざるを得ないのです。そのような神様の苦痛を誰が知っているかというのです。それを解放してあげなければなりません。そのようにしようとするなら、サタンを処理して地獄に落ちた人を救ってあげることのできる息子、娘がいなければなりません。そうでなくては不可能なのです。
神様に「あなたは何をして生きたいですか」と聞いてみれば……。皆さん、私は直接聞いてみて返事を聞いた張本人です。裁判長ではありません。弁護士でもありません。検事でもありません。「愛に酔って生きたい」と言うのです。答弁は簡単です。何に酔って生きたいと言いましたか。愛に酔って生きたいというのです。愛に酔うようになる時は、目も一つの所へ行き、においをかぐ鼻もそちらへ行き、話す口もそちらへ行き、聞く耳もそちらへ行き、すべて一つの所へ行くのです。五官を完全に統一できる刺激的な要素が、私たち人間において何だというのですか。それが愛です。
神様がなぜ人間を創造しましたか。神様が一人でいればよいでしょうか、寂しいでしょうか、喜ぶでしょうか。今日、宗教はそれも解決できずにいます。キリスト教では「神様は大審判主になり、裁判長になって、悪い者は地獄に送り、良い者は天国に送る」と言います。神様が裁判長になれば、神様の資格がありますか。それなら怖い神様でしょう。接したくない神様です。何の神様になりたいと思われるのかと言えば、人類に対して真の愛の神様になるということです。


