2005.12.10UPF創設巡回講演 ウルグアイ大会
2007.5.7天宙平和神文明開闢 東京大会(お母様と顯進様、UPF共同議長任命前の母子協助)
2013年8月22日、25日に韓国のケーブルTV・MBC NETで放映されたドキュメンタリー番組「文鮮明師、統一と平和のための生涯」。
世界各国で世界平和のための様々な運動を展開してきた文鮮明師の業績と生涯を紹介しています。
(この動画はMBCより許可を得て、日本語吹替版を公開しています)
2012年9月3日 文鮮明師 聖和
北朝鮮が、文鮮明師に祖国統一賞 授与
1991年12月6日 平壌 北朝鮮 電撃訪問
文鮮明師は『主体思想では南北統一できない!』と語られた。にも関わらず、金日成主席は、文先生を歓迎した。
文先生と金日成主席との間で合意された要項
1.離散家族の再開を実施
2.核エネルギーの平和的利用、国際核査察の受け入れ
3.経済協力
4.南北首脳会談
5.文鮮明総裁の金剛山開発
文先生は1960年代から勝共運動を本格的に開始することとなる。日本の朝鮮総連を変えていこうと心に決められた。
1974年6月 朝鮮総連が韓国訪問
『共産主義を倒すこの戦いは、神の戦いになることでしょう。 大韓民国、万歳!!!』
1971年 文鮮明師 アメリカ全土で活発な牧会活動を始められる。アメリカでは、東洋から来た見知らぬ牧師をメディアでも歓迎し注目した。
1976年9月 ワシントンモニュメントで約30万人の群衆が集まった。この集客記録は現在まで破られていない。
『何よりも無神論に基づいた共産主義の脅威は一番深刻であり、この時間にもいたるところで侵食してきています!これはアメリカだけの問題ではなく、神においては、すべての宗教人と全自由世界の人々に深刻かつ切迫した問題です!神が200年の間、準備したアメリカは大きく覚醒して、神が命じられた重大な世界的使命を果たすべきです!』
全米各地を巡回され、1976年、ニューズウィーク誌は文鮮明師を表紙の人物として選んだ。
1982年5月 文師は、ワシントン・タイムズを創刊。左傾化する世論の反対にたった。勝共運動との関係が深い。
投票日の朝、ニュース・ワールドの予言として、『ロナルド・レーガン 地すべり的勝利(Reagan landslide)』この記事を持って、レーガンのもとに行った。『あー、レーガンが勝つのだな』という世論を創出した。

それは、文先生の奇抜な大統領選挙の戦略でした。そして、保守派の共和党 ロナルド・レーガン大統領が誕生した。それにより、共産主義が弱体化するという文先生の戦略は正しかったのである。
レーガン(第40代)大統領は、『ワシントン・タイムズは、いつも人気がある記事を書いたわけではありません。しかし、本当に力のある声でした。私は一番大切な数十年をワシントン・タイムズと共にしました。そして、我々は冷戦に勝ったのです!』
マーガレット・サッチャー(第71代イギリス首相)は、『この新聞は難しいときに、保守主義の声が聞こえてくるようにしてくれました。文鮮明先生が建てたワシントン・タイムズが創刊したとき、保守主義の声を叫ぶのは容易なことではありませんでした。』
ジョージH.Wブッシュ(第41代大統領)『文鮮明先生がワシントン・タイムズを創設されたとき、彼がもっているビジョンに感謝の意を表します。心から尊敬の意を表します。』
(5月17日に創刊40周年を迎えました)
2007.5.17 ワシントン・タイムズ(WT)創刊25周年祝賀晩餐会
1989年11月 ベルリンの壁が崩壊、文総裁の願いが成されていった。
1990年4月、文鮮明先生は、ソ連を訪問した。
文先生は、ゴルバチョフ大統領に『今日、このように大統領に会ってみると、ハンサムで若く見え非常に嬉しいです。』大統領は、『はい、実はよくそう言われるんですよ。』(笑い)
文総裁は当時、ペレストロイカとグラスノスチ、すなわち改革と解放を叫んだ大統領に強烈な支持をおくった。
文先生は、大統領に強力な指示を送る。『今、大きく世界的な仕事をなされているので、大胆に勇敢に進めなければなりません!』
そして、文総裁は大統領にいくつかの提案をされる。韓国・ソ連の修交と経済協力、平和、南北統一の支援、宗教の自由などの許可がそれだ。
その中で、興味深い提案が一つある。それは、ソ連の大学生3000人をアメリカに招待し、彼らの教育を支援するということである。この提案は受け入れられた。
文総裁は、新しい価値観で新しい時代を拓くことを望まれていたのだ。
1991年12月、ついに崩壊したソ連。その年の8月19日、ゴルバチョフ大統領に反旗を翻すグループにより、クーデターが発生した。これを3日天下で阻止した中心にいたのは、他でもない3000人の学生たちだったのだ。
これは、危機に瀕していたゴルバチョフ大統領の命を救ったのだ。
後に、ゴルバチョフ氏は、韓国を訪問して文総裁に会いに来られた。それは、文先生がゴルバチョフ氏の命の恩人だったからである。その時の二人の話題は、『世界平和』だった。
1994年、北朝鮮と韓国の関係が危機的な状況となった。北朝鮮の核開発で、第1次核危機になったのである。1992年、IAEAが北朝鮮に対して核査察を実施する。しかし、IAEAは、査察結果が足りないとして、特別査察を実施した。
北と南の戦争が高まる緊迫した状況の中、文総裁は、特別な措置をとった。
1994年、中国北京で、南北青年学生平和セミナーを開催したのだ。学生たちは、北京で和解の扉を開いた。これは、戦争が起こらないという希望のメッセージとして世界各地に響いた。
1994年6月28日、南北実務会談が行われた。しかし、7月8日2時に金日成主席が他界した。南北関係は新たな局面に入ることとなった。
朴ポヒ 韓国世界日報社長は、金正日氏に合い、北朝鮮に弔問団を派遣した。しかし、韓国の世論は冷たかった。・・・ このような状況のため、朴氏は4年間、韓国に入れなかった。
1998年5月、平壌でリトルエンジェルス(1962年創設)の公演があった。南から来た天使たちに北朝鮮の人々は歓迎した。これを推し進めたのは、文鮮明先生だったのである。
そして、2000年、平壌学生芸術団がソウルを訪問した。南北が和解して、対話する雰囲気が醸成されてきた。5月26日、ソウルにて、芸術の殿堂公演。公演は成功裏に終わり、人々は感動した。北から南、南から北、どちらから見ても同じ言葉を話す同胞・・・
トップニュース『6月12日、南と北が民族の前に全世界の前に南北首脳が平壌で会談を行うこととなりました!』
55年ぶりの南北対談。金大中大統領と金正日総書記の電撃的な首脳会談が開催された。
金正日総書記は、『特に故郷を失った人とか、脱北者の話とかを聞きました。彼らが涙を流しながら故郷の話でも伝え聞くのではないかと・・・その道が早まるのではないか』会談の結果として、6.15南北共同宣言が署名された。
(2000年夏のシドニー五輪では、朝鮮半島の(統一)旗をもって、南北合同で選手団入場)
(2002年9月の小泉首相の北朝鮮訪問で、拉致被害者の解放も日本政府による朝銀救済のほかに、このような熱があったからであると思われる)
文鮮明師は、北との経済的交流事業として、1998年『平和自動車』を設立された。
平壌に代表されるのが、普通江(ポトンガン)ホテル、これも文師が推し進めた事業の一つである。
文総裁は、宗教の統一にも取り組んでこられました。『キリスト教とユダヤ教と統一教が、一つとなって和解しなければいけません!そうすることで、全ての宗教が一つにならなければならないというのです!』
2001年9月11日、アメリカで、イスラム過激派によって、同時多発テロが発生した。文先生は、中東和平に向けて超宗教活動を推進された。2003年から過去10年間、中東地域・イスラエルで、宗教間の対話の活動を繰り広げてこられました。ガザ地区、イスラエル国会などで、宗教的な平和活動が推められた。
ヤーセル・アラファート(1994年ノーベル平和賞受賞)PLO議長は、『平和の聖地で、文先生に会うのを楽しみにしています。』と語った。
2003年9月から、2004年5月まで、7回にわたってユダヤ教・キリスト教・イスラム教・ヒンズー教・シーク教などの宗教界のトップが集って、イスラエル平和大行進が行われた。
文鮮明総裁は、1968年から世界宗教協議会を発足されて、宗教和合に向けた活動をされてこられました。このような活動は多くの宗教関係者から高評を博してきた。
1985年、ジュネーブ世界平和教授協議会世界大会は、『ソ連帝国の崩壊』というテーマで世界の注目を集めた。
1973年、世界的に有名な学者たちを集めて、世界平和教授協議会(世界平和教授アカデミー)は、今もなお、継続して開催されている。(李相軒先生)
一方、大学生を対象にした、『世界大学原理研究会』を設立された。
1979年、アフリカで国際救護親善財団の財団を発足された。この財団は保育園・医療サービス・衣料品など・・・ナイジェリアのグッドラック大統領は国賓として文先生を招待した。播基文(国連事務総長)との会談など、お母様は女性の平和活活動に尽力してこられた。
1992年、文師の令夫人であられる、韓鶴子総裁を通して、世界平和女性連合を創設された。韓国と日本の姉妹血縁式などがその代表的活動にあたる。日本とアメリカ・中国なども賛同した。





