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2005.11.22UPF創設100都市講演     2007.5.9天宙平和神文明開闢

ネパール・カトマンズ大会          千葉大会・祝勝会(お母様と三男様)

 

私のような幼い者が、天国について、アベル教団としてあるべき姿について、論じることは、大変恐れ多く、ここで述べることに対して相応しい自分なのか自信を持つことができませんが、天の願いを授かったかつての主が語られた御言を改めて浮き彫りにしていくことで、神様がこの世により強く接着できることに繋がることを希望いたします。

 

父母なる神様は、全世界・全天宙世界一人残らず天国に連れていこうとされておられます。『One Family Under God』

天国は限られた人だけが行くところではありません。

『神主義』は、全人類・全万物世界を天国にかき抱く思想です。愛は世界・天宙を救う!!!

 

人間の生と霊魂の世界
2-二 天国と地獄 1.天国は愛の理想の世界

 

 天国は、愛の世界であり、中心者である神様のためにある世界、神様のために生きる世界です。

 

 天国とは、どのような所ですか。神様の愛が中心になっている所です。神様の愛を中心とした環境圏を設定した所が天国です。それでは、その圏に行ってとどまる人は、どんな人でなければならないのでしょうか。神様の愛の本質と和合できる人にならなければなりません。そのような人以外には行くことはできません。

 

 天国とはどのような世界かといえば、神様の愛の世界です。愛の空気を吸う世界です。そこには生命がぎっしり詰まっています。どこに行っても生命が躍動しない所がありません。そして、すべて血縁的な因縁によって結ばれています。神様の一つの血筋であるがゆえに、神様が悲しむそのような何かがあれば、全霊界が一つの細胞のように、一つの体のように悲しみを感じるのです。また、神様が喜べばすべてが喜ぶのです。そのような世界です。それで、神様の愛が膨大な大天国を動かしているのです。


 天国という所は、心情を通さずには行くことができない所です。天国は全体を主管できる本然の国であり、本性の国だというのです。その国は、いかなる事情をもってしても所有できません。深くしみ入る心情の因縁を備えてこそ所有できる国です。それゆえに、キリスト教は究極的に事情を通す教会ではなく、心情を通す教会です。事情の因縁を越えて心情を謳うことのできる基盤を築くのに、地に対して摂理なさる天の目的があるというのです。

 

 天国に入っていける人とはどのような人ですか。まず神様の心に合う人にならなければなりません。どれくらい合わなければならないのでしょうか。神様が永遠な目的を中心として永遠な理想を描いていく方なら、永遠に心が合わなければなりません。十年ぐらい合わせて途中で合わなくなれば駄目です。永遠であられる神様に、永遠に心を合わせなければなりません。そのようにしようとすれば、どのようにしなければなりませんか。永遠にお互いに喜べる息子にならなければなりません。そのような息子になろうとするなら、悲しみの対象として現れてはなりません。

 

 人間を中心とした真の愛、それが絶対価値の花です。神様がなぜ生きているかといえば、真の愛ゆえに生まれ、真の愛ゆえに生きるのです。人もなぜ生まれ、なぜ生きているかといえば、真の愛ゆえに生まれ、真の愛ゆえに生きるというのです。そのような時は神様も不平なく、人も不平なく宇宙の花のように咲いて香りが漂うというのです。真の愛をセンターとして両側が一つになるのです。右側も左側も「万歳!」、両手を挙げて「万歳!」、真の人も「万歳!」、霊界も見下ろして「万歳!」、こちらもあの上も「万歳!」と言うのです。すべて一つになって香りが漂うのに酔って ……。

 

 天国に行く道は、兄弟を神様のように愛することから開かれます。皆さんは先生に従って行こうとするのですが、その心で兄弟を伴って一緒に行こうと努力しなければなりません。天国に最も高く、早く、良く導く者は、神様でもなく、先生でもなく、兄弟だという結論を下すことができます。


 天国に行こうとするなら、罪を犯さず、神様の愛を直接受けることができ、救い主が必要ないという息子、娘の資格を獲得し得る過程を経なければなりません。そのように生きた人間が天国に行ってこそ、神様の理想天国が成されます。


 天国という概念は、サタンを克服した位置で、サタンが相対できる一切の要因を否定した位置で、否定するだけでなく清算した位置で成立できます。サタンの否定的条件が残っている歴史的な遺物や生活のすべての内容を否定して清算した土台の上で天国が肯定できるのであって、それを残しては天国の内容を提示できません。

 

 天国とは、どのような世界でしょうか。一人がうまくいくことは、全体を代表してうまくいくことです。また、一人が喜ぶことは全体の代わりに喜ぶことなので、一人が喜べば全体が喜ぶのであり、一人がうれしがれば全体が共に喜ぶ所が天国なのです。

 

☆天国とはどの様な所でしょうか。サタンを屈服した所です。自身を屈服した所ではありません。自体だけを屈服した所ではありません。天国は、サタン世界の内容と相反する所で成されます。もし、そのようでなかったら、天国に成り得ません。天国という名前がついていても、それは環境をたぶらかす為のトリックにしかならないのです。 天国は、この様に高貴なものです。(地上生活と霊界 4-1-8)

 

☆皆さんは、天国に行くという考えをしてはいけません。地上に天国を建設するという考えをすべきです。天国を建設する前に、まず皆さん自身が天国人にならなければなりません天国人に成るには、「神様の心が自分の心であり、自分の心が神様の心である」と自信を持って言う事が出来る程度に、神様と心情一体をなさなければなりません。それで、地上で神様の心に代わり、神様と先祖たちの心に代わらなければなりません。それでこそ、歴史的な全ての問題を解決する事が出来るのです。(3-295 地上生活と霊界 4-1-7)

 

☆天国という所は、心情を通じなくては行く事が出来ない所です。天国は、全体を主管し得る本然の国であり、本性の国です。その国は、事情を持っては所有する事は出来ません。深く染み込む心情の因縁を持ってこそ、所有する事が出来る国です

 

今まで宗教人たちは、また、神霊なる宗教指導者たちはみな、どこに集まったのかといえば、天国に入っていく門の前に集まったのです。天国に入ろうとするならば怨讐を愛さなければなりません。アダムとエバ(アベル教団の群れ)が完成して天国に入るときには、天使長(全カイン圏)もアダムとエバについて天国に入るのです。天使長(全カイン圏)が神様の愛を受け、アダムとエバ(アベル教団の群れ)の愛を受けたのちに、共に天国に行くことができるというのが原理であり、創造の原則です

 

3.天国は地上天国を経ていく所

 今日、数多くの宗教人は、「天国は自分の宗教を通じてのみ成される」と言います。それはすべて妄想的な話です。多くの宗教がそれぞれ、「我が教主が教える教理を通じて天国が成される」と言います。キリスト教だけ見ても数十の宗派に分かれています。自分の宗派でなければ異端視してサタン視するのが現実です。その教団が神様から公証を受けてそのようなことを話すなら分かりませんが、ただ単に自分の宗派を立てて、自分の宗派を残すための欲からそのようにするなら動機が純粋ではありません。そのような宗団は、すべて滅びるようになります。もし統一教会がそうならば、統一教会から滅びなければなりません。
             
 霊的世界も塀ですべて遮られています。仏教圏があり、儒教圏があり、すべて塀でふさがれています。これをより高い神様の心情を通じてすべて取り除かなければなりません。天上世界の高い玉座から塀を壊して逆に下りてこなければなりません。何万年の私たちの先祖の塀から何千年の私たちの先祖の塀、何百年のこの時代の塀、何年前に亡
くなった、すべての人々の塀をすべて壊して、地上のすべての塀を壊して、これを地獄まで連結させ得る道を築かなければ、開天門が成されないのです。


統一教会の食口はどの水準にまでならなければならないのでしょうか。釈迦よりも立派な人にならなければならず、イエス様や孔子よりも立派な人にならなければなりません。今までの宗教の目的は、個人を救うことでした。しかし、統一教会は個人の救いよりも家庭を目的とするのです。統一教会が一般宗教と違う点がこれです。救うけれども家庭を救い、天国に行くにも自分一人で行かないというのです。
             
 天国という所は一人では行けません。天国という所は必ず相対理想を決定してこそ入っていけるようになっているので、堕落人間が天国に入っていくためには、復帰の歴史、復活の歴史、再創造の歴史を経なければならないのです。皆さんを祝福してあげることは、天国の門をぱっと開けておくことです。「祝福」という名詞を立てて閉まっている天国の門を開けてあげることです。
             

 地上天国と天上天国は、レールが同じで二つが合うのです。国境を越えれば、この世のレールとあの世のレールと合わなければなりません。それでこそ貨物列車が走ることができるのと同じように、地上と天上世界のレールが合うようになります。ここで走る愛の機関車を担った家庭が、ただそのまま天国まで、天の玉座の前まで直行できるレールを連結させるための道というものは、真の愛で「ため」に生きる道です。個人が行く道と家庭が行く道を、すべて連結しなければなりません。方向が一致するのです。

 

1999年3月に天使長が屈服したとしても、今の紛争渦巻く世界を見れば、カイン圏が完全に屈服されたと言うことはできません。

 

本当の天国人なら、神様の御心を実感しているだけに、地獄に人が残っていれば、その人を残して入るのは忍びないと思うはずです。本当の天国人は、全ての人を天国に連れて行って、一番最後に行こうと意識して実践する人でしょう。地獄の中で悶えている人が残っている中で、先に天国に行った者だけが神様と共に喜び憩いのときを心から満喫できるでしょうか?1匹の迷い出た子羊のために、他の99匹よりも一匹のために強い意識を持たれる神様の親心の意味は、即ち地獄にいる人々の解放ということでしょう。ですから、天国は全ての世界が天国に転換された瞬間に、初めて劇的に成されて完成するという図式!

 

天国が高貴なものであると主がおっしゃられたのは、全てを等しく平等に愛そうとされる高貴な神様が願われた本然の国だからこそという意味でしょう。地獄に人が残っているままの中途半端な天国は、高貴という言葉が似合わない。

神様は心情的地獄の中でも確信を持って法度を守られておられるのですから、天国の価値はそれほどに高いことは間違いありません。

カイン圏を愛して自然屈服に導くこと。これこそが地獄の人々を天国に連れていくことであり、地獄を解放する唯一の方法なのです。

中間霊界も、それで引き上げられてゆきます。したがって、天国建設の鍵は、基点となる天国人とされる人々(アベル教団)が、神様の愛と赦しの心といつも一体となった本物の天国人の群れであるかどうかに掛かっているという結論になります。

(超難題である長子権復帰の重要性) 参考ブログ ヨシュアの天国を創ろう!)

 

サタンも、人類を救おうという神様の愛の前には、讒訴出来ないのです。父母の愛を通じては、悔い改める者を許せない法がありません。 それで、その様な心情を通じて、地獄迄も解放しなければなりません。それが真の孝行者として行くべき道ではないでしょうか。それで統一教会では、地獄迄も救おうと言うのです。何故でしょうか。それは、神様がその様なお方だからです


☆人間が死んで地獄に行くのを見る時、神様は永遠に生かしてやりたくて、やきもきするのです。そうすべき父母の立場で責任を果たすのであって、「えい! 皆掃いて捨ててしまおう」と言えば、父母の立場に立てはしないのです。それ故、地獄迄解放しなければならないという論理が成立します。(地上生活と霊界 4-1-5)

 

神様は怨讐をたたき殺すのではなく、怨讐を愛したという条件と、怨讐であるサタンを、アダムに代わる立場に立つ人として愛したという条件を立てなければなりません。迫害を受けながら涙と血の汗にすべて打ち勝って、耐えに耐えて自然屈服させて、神様の愛を抱いて戻ってきて初めて祝福を受けることができるのです。そこでサタンは放してくれるのです。「あなたはこれから天国へ行くことのできる子女となれる」という公認を受けなければなりません。一番最初に誰がサインしなければならないかというと、サタン(カイン圏)がしなければならないのです。(天聖経 p1284 罪と蕩減復帰 3-4-1長子権復帰)

 

間違った思想は、断固として神様の思想で包み込む
神様は、全ての人々を等しく愛される中で、それぞれの人々の心が形ある姿として、神様の目を通して映っていることでしょう。イスラム過激思想や極左共産主義思想に染まり、本来の美しい心が醜い姿に変質して闘争を仕掛けている人々を見ては、「嗚呼、あの思想を本来の思想に転換さえすれば本来の美しい天国人のはずなのに・・・」と、地団駄踏む想いをされておられるはずです。罪を憎んで人を憎まず = 誤った思想は神様の思想で包んで人を憎まず。これは、神様の体・心を持つ驚くべき価値をもった息子・娘達に対して神様が訴えたい言葉であります。

 

勧善懲悪は神様を悲しませる
神様は闘いには関心がありません。神様の創造理想圏、その理想圏内には戦争、闘争という概念はありません。闘争の概念があるとするならば二元論に陥るのです。根本的にこれが一つの理想世界、絶対的な平和の世界とは関係ないところに落ちることになるので、神様の創造世界圏内には闘争という概念はないということを知らなければなりません。


・地獄とは

☆地獄とは何でしょうか。悪魔の愛の圏内を言います。悪魔は、憎悪と嫉妬とねたみと分裂と破綻だけを崇拝するのです。それで、悪魔の圏はその様なものだけが盛んなのです。それが戦争として現れます。(地上生活と霊界 4-1-5)

 

殺生を禁じ、慈悲の心を尊重する仏教文化にある日本は、平和を愛する民族といえます。嫉妬・復讐・殺人容認の旧約の神観に汚染されていない無垢の精神文化の中にあり、世界全体から見て、大人の心を持った国。忠孝心が飛び抜けて篤く、神様から注目されるのは必然だと思います。怨讐を愛するという超難題である長子権復帰が救援摂理の主要テーマであるからこそ、そのような資質が備わっている民族でないと成し遂げることは難しい。そういった背景も母国として選ばれた理由であると思います。

 

 

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