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2007.5.4 天宙神文明開闢 大阪大会当日(お母様と三男様 )

  

人間の生と霊魂の世界

1-4ー3.(良)心に同化された生活をしなければならない

 

 霊界に行けば良心が霊界での体のようになりその体に対する良心の立場に神様が現れるのです自分の良心は神様の体になるのです。皆さんが神秘的な世界に入って、「神様、どこにいらっしゃいますか」と言えば、自分の中から「ここだ、ここだ」と言うのです。人々はそのような体験を多くします。それで、人間はすなわち天だという話が出てくるのです。(250-156 天聖経(元祖) p915)
 

良心が神様の代わりに私に植えつけられた第二の神様、私の中心存在であることを知らなかったというのです。神様以上に仕えなさいというのです。道主以上、イエス様以上に仕えなさいというのです。そうすれば、イエス様を信じた以上の位置に行くことができるのです。
 良心を解放し、解放的自我を確立させて統一圏をもたなければなりませんが、それができない人は天国に行けないのです。天国をすべて探してみましたが、そのようにして天国に行った人がいません。

 

 

 


永生というものは、本質的な愛の属性です。神様も、宇宙を創造されるとき、自ら絶対信仰、絶対愛、絶対服従の基準を立ててなされたのです。永遠に、永遠無窮に、世の中は過ぎていったとしても自らの愛がもっと大きくなるようにと投入することのできる、そのような心を持って生きていらっしゃるかたが神様です。
 ですから、神様の前に主管を受けたくないと思う存在や、相対的な理念を持った存在でありながら、神様に絶対、唯一、永遠、不変の主人として侍らずにいることのできる存在はない、ということを知らなければなりません。
 永生不滅の位置で創造された息子、娘が、その位置に立てば、神様の国が自らの国となり、神様が自身の神様になるのです。神様と天の国の伝統的主人としての生活方法と自分が一致すれば、神様の息子、娘であることは間違いないので、蕫永生不滅﨟ということは自動的な結論なのです。それで、「死なんとする者は生き、生きんとする者は死ぬ」という逆説は、真理です。
 国境撤廃にも国連の国々の国境撤廃、宗教の国境撤廃、民族の国境撤廃、地獄と天国の国境撤廃があります。

 

「国境線撤廃と世界平和」、「国連の刷新」を国連で超国家的に宣布(2000.8.18)
http://ameblo.jp/nyanko737/entry-11176313249.html

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☆「生きんとする者は死に、死なんとする者は生きん」と逆説的な論理の意味


この御言葉が語っている意味とは、
肉身の欲望のまま生きれば地獄に行くのであり、肉身の欲望を抑制して良心に従っていけば天国に行くという話です。

この体を完全に屈服させ、良心が絶対的な主体の立場に立つようになれば、私たちの良心は無限な欲望と無限な希望をもつようになっているのです。
私たちの心と体を見るとき、体は地獄の基地になっており良心は天国の基地になっています。この二つの世界の分岐点をもっている人間であることを知りませんでした。
良心が強ければ、自然と天に帰っていくので、世界は既に天の前に立つことができたはずです。また、肉身が良心を引っ張り回すというのは、堕落するときにサタンと関係を結んだ偽りの愛の力が、堕落するときの良心の力より強かったということです。


主が語られた『良心宣言』

☆良心は両親に勝る、
☆良心は先生に勝る、
☆良心は神様に勝る・・・

 

☆皆さんの良心は、先生よりも優っているという事実を知らなければなりません。
☆良心の世界には、先生が必要ありません。

 

皆さんの良心は先生よりも優っているという事実を知らなければなりません。ここには著名な方々と、教授たちが来ていらっしゃると思いますが、皆さんが良心以上のことを教えてあげる内容をもてないでいるのです。皆さんの良心は、船におけるコンパスと同様の役割をしているのです。(1995.5.7 真の家庭と私)

 

☆皆さんは、天国に行くという考えをしてはいけません。地上に天国を建設するという考えをすべきです。天国を建設する前に、まず皆さん自身が天国人にならなければなりません。天国人に成るには、「神様の心が自分の良心であり、自分の良心が神様の心である」と自信を持って言う事が出来る程度に、神様と心情一体をなさなければなりません。それで、地上で神様の心に代わり、神様と先祖たちの心に代わらなければなりません。それでこそ、歴史的な全ての問題を解決する事が出来るのです。(3-295 地上生活と霊界 4-1-7)

 

良心の世界には先生が必要ありません。ある国の文部省の大臣が、良心教育をしようと宣布をしたという話を聞いたことがありますか。良心が本然の道を行ったなら、私が一生の間、行く道をはっきり知って、間違いなく神様の懐に帰ることができるように、みな教え導いたのです。皆さんが良心を中心として見るときに、良心がすべての私の一生のことを知っているのと同様に、霊界に行けば霊界にコンピューターがあるので、地上でなされたすべての事実がはっきりと記録されるのです。(1995.5.7 真の家庭と私)

 

『真の家庭と私』 1995.5.7~7.7 中南米17カ国巡回での講演文

『真なる統一と一つの世界』1990.4.9 モスクワで開催された「第11回世界言論人会議」での講演文より抜粋

 

◆ 神様は良心の根である
私たちの良心は常に心の中の師として、父母として、人類の究極的な父母である神様と完全に一つとなるように導いてくれなければなりません。
この時、良心は私たちの中にある神様の代身者となるのです。さらには良心を「第二の神様」とも呼ぶことができるのです。(1990.4.9 モスクワ)

無形の神様は私たちの真の愛の理想の主体であり私たちはその絶対的対象の立場にいるので、第二類型の神様の立場にいることを確信し、無形の神様と真の愛によって心身一体を成し、私たちの心を絶対に神様のように侍るところでのみ、堕落した体からサタン世界を追放することができるのです。
良心の命令に絶対服従するところでのみ、「本然の自己」を取り戻すことができるのです。(1994.3.27)

 徹底して他のために生きる時、私たちは初めて神様の本質に到達することができます。そうすれば、神様の思いが人間の思いとなり、神様が感じられることが自然に人間に伝達されるのです。このように生きていく時、人間は神様の心情と愛に共鳴する器となるのです。二つの音叉が共鳴するがごとくに、人間と神様も常に共に共鳴するようになるのです。
それが正に究極的な人間の本来の原状なのです。この本来の原状に到達する時、神様の愛は私たちの愛となり、神様の生命が私たちの生命となり、神様の血統がまさしく私たちの血統となるのです。神様の創造された世界が私たちの世界となるのです。(1990.4.9 モスクワ)

 

人間の良心は神様を代表する心です。良心は私のために存在しません。天の義のために存在します。良心は常に善に向かって走ろうとします。これに体は反抗をします。体は自分だけ安らかであろうとするし、利己的であり、本能的欲求に従って肉欲を行おうとします。良心はこの体を叱責し、心に順応するようにします。

 

 では、神様の良心はどれほど大きいでしょうか。人間の良心と神様の良心を比較すれば、どちらの良心がより大きいでしょうか。神様の良心が人間の良心より大きいなら、その良心で何をするのですか。神様が一番占領したいのが、この上なく大きな人間の真の愛に対する欲望だという結論が出てきました。

 

 神様が主体なら人間が対象の立場にある存在なので、神様の分身ではありません! 神様もまた他の別個の人格者だというのです! そうなり得る対象の前に、神様の何千万倍の期待できる価値的な存在になることを願う欲望を可能にすることのできる、私たち人間に許してくれたのが良心の欲望だということを、私たちは知らなければなりません。

 

 私の良心というものが、永遠なる神様の真なる息子、娘になるために、そのような傷のない子女となるようにするのが良心の使命だということを、今まで知りませんでした。霊界に必ずみな行くのです。皆さんが霊界に入れば、すぐに名前が分かるようになって、皆さんの一生だけでなく、数千代の先祖たちも一瞬間に分かるのです。その世界は時空を超越した世界なので、良心に反する内容を残してはならないのです。

 

 私たち人間も愛する相対が、自分(神様)より(偉大なる良心をもった)何千万倍の無限大の価値ある存在であることを望むのと同様に、神様も自己の愛する相対が、無限なる価値ある存在になることを願うのです。そのような人が真なる人間でした。皆さん! そのような男性と女性が、正にアダムとエバだったという事実を知りませんでした(1995.5.7 真の家庭と私)

 

◆良心は真の愛(神様の天国)を願う
 皆さん自身を中心としてみるとき、皆さんの良心は皆さんのあらゆることで知らないことがありません。良心は私において、父母よりも近い立場に存在することで、永遠なる愛をもって、永遠に神様の懐に抱かれることを願っているのです。世の中の父母たちは、結婚すれば別れることがありますが、良心は私を中心として、私が生まれる前から私と共に存在し、私を愛しながら永遠に神様の子女として解放させようとするのがその使命だったのです。

 

 神様に一番必要なものが何かが問題です。神様を何といいますか。神様は愛の王である! もし神様が愛の王であり、新郎であれば、相対者たる皇后が必要だという話が絶対的原理です。では、絶対的な神様の前に愛の相対になるお方は誰でしょうか。それは真なる人間です!

 

 私はここで、良心の欲望をいっぱいに満たす愛の主体である神様に侍り、その神様の愛の対象である男性と女性が一つになって、その愛で息子、娘と幸福によく暮らす。その家庭こそ、神様の真の愛を中心とした地上天国の最初の出発の基地にならなければならないのです。

 

 良心を解放させ、神様の真の愛と一つとなって暮らしてから入る所、神様の愛の血族のために準備して、愛を中心として暮らしてから入る所が天国だというのです。

良心は神様の真の愛を、どのように占領するのでしょうか。皆さんが心を解放させ、解怨成就させて、三六〇度をもって解放圏を良心世界に放てば、その良心は自然と神様の真の愛と連結されるのです。愛と良心のどちらが大きいかといえば、愛が大きいというのです。なぜなら、良心は愛から始まったので、愛がより大きいということを知ることができます。(1995.5.7 真の家庭と私)


◆人間の良心に対する神様の願い
 本来、心と体は切り離そうにも切り離すことのできないものでした。人間の心は神様の心であり、人間の体はその心を入れる器でした。ところが、人間の堕落は人間の体を悪魔にやったのです。その時から人間の体は悪魔の僕になりました。神様が理想的な対象を願いながら、愛の対象が完成する前にこの宇宙をおつくりになりましたが、愛の対象として完成したのちに、アダムとエバがそれ以上に大きなものを再び創造してほしいと言えば、神様には創造なさることのできる能力があるでしょうか、ないでしょうか。

 私たちの良心の欲望が無限なものであっても、それを創造してくださる神様だということを知らなければなりません。

このように無限なる神様の真の愛を中心として、対象の価値としてつくられたという事実を完全に失ってしまったので、これを再び回復しなければならないというのが、人間の生涯であり、人類歴史の目的だったということを知らなければなりません。(1995.5.7 真の家庭と私)


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いくら各宗教が集って、救いの教理をアピールしても、普遍的な愛の唯一神(頭翼思想・原理)を紹介しなければ、一つになることができません。
本当に不思議なことに、神様の真の愛を中心とする普遍的価値をもって進んでいくと、誰もが感動し、「これは本物だ!」と言ってくれるのです。

 

アベルUN完成といいましたが、「アベルUN」がすぐにアベルUNになりますか?アベルUNが定着するためには、神様の理想を中心として、神様がこの世界を一つの一族として、
一つの国として、一つの中心核の国として立てることができなければなりません(One Family under God)。天上世界に行って、解放の日を億千万世祈祷したとしても、
その祈祷が神様自体においては成し遂げられるまでは、いくら祈祷したとしても祈祷が無効になります。成し遂げることはできません。文総裁がいくらアベルUNをつくって全て成し遂げたとしても、私の精誠の内容よりも、皆さんの内容の方がもっと深く、高くあってこそ、天上世界と地上世界に、より幸福になることができる舞台が連結されるのです。
アベルUNに対する意識が小さくなれば縮小され、どんどん縮小・・終いには失くなってしまうのです。解かりますか?・・・ 未来の問題ではありません。直面した今日の問題です。・・・(2008.1.2 第25回 愛勝日の御言)

 

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