今ほど視力が悪くなかった高校〜大学時代、基本的に普段は裸眼で過ごし、授業中だけ、黒板の文字を見る為に眼鏡を掛けていました。



それを知っている同級生と話していた時に「普段は眼鏡掛けてないんだ。でも、普段でも見えにくいのって怖くない?」と聞かれたことがあります。



大人になった今でも、その言葉をたまに思い出すことがあります。



確かに、見えにくいのが怖い場面もあります。

例えば私なら、自転車🚲を運転する時は、眼鏡なしでは怖くて乗れません。



ただ、はっきり見えるほうが怖い時もあります。

数年に一回ぐらいの頻度ですが、自宅に現れた虫退治をする時は眼鏡を外します。

(虫については名前を書くのも嫌なので具体名は伏せます、察してください😅。)



私は昔からヤツが大の苦手でして(得意だという人も滅多にいないでしょうが…)、名前を見たり聞くのも嫌というレベルなので、ヤツらの姿がはっきりと見えてしまうのが恐怖なのです😱。



裸眼でもぼんやりとですが物体(笑)の位置はわかるので、眼鏡を掛けずに必死の思いで心臓バクバク、汗をダラダラ流しながら戦いますボクシング



こういう風に、裸眼なら、見たくないものを見なくて済むという利点もあります(笑)。



あとは、誰か人と話す際にも、裸眼のほうがなんとなく気が楽です。

相手の些細な表情の変化やそこから読み取れる感情など、気付かない方が楽だなと思うからです。



「知らぬが仏」という諺があるように、見ないほうが幸せ、知らないほうが幸せ、という事は、世の中に沢山あって、それは人それぞれ違うのだろうと思います。



見たいものだけを見て、きれいで優しい、楽しいものだけを見て、そのほうが幸せに生きられるんじゃないか?と思うことがあります。



私自身も、今まで生きてきた中で、見なくてもいいことを見たり、知らなくてもいいことを知ってしまったが故に、傷付き「こんなこと知りたくなかった」と後悔したこともあります。



逆に、見ることにすら意識が及ばなかったり、心の奥底で「これはしっかりと見なければ」と気付いていても目を背けて見ようとしなかったが故に、誰かを傷付けていたり、誰かの苦しみに気付かず「もっと早く見ていれば良かった」と後悔したこともあります。



ただ、「こんなこと知りたくなかった」と後悔した場合でも、その時は辛くても「これは自分を省みる為、現状をもっと改善していく為に与えられたことなのだ」と前向きに気持ちを切り替えて、何とか乗り越えてきたつもりです。



そう考えると、見えないこと・見ないことが、果たして楽しく幸せなことなのか?と考えます。



でもやっぱり、見なくていいこと・知らなくていいことはそのままでいいんじゃないか?

人生、わざわざ余計な悩みを増やす必要もないし…と考える事もあります。



どちらが良い悪いとか、正しい正しくないかではなく、どちらがより楽しく生きられるのだろうか?



以前からずっと考えていることですが、未だ答えは出ないままです。



そんな事を考えながら、いつのまにか付いている眼鏡の汚れを拭き、コンタクトレンズ装着によるドライアイで目をしぱしぱさせている日々です。