おはようございます。

気づいたらスケアメ男子、終わってました( ̄▽ ̄;)
ネイサンぶっちぎりの優勝おめでとうございます🎊

東北ぽんこつレポも、そろそろ終盤に差し掛かりました。
あと少しだけお付き合い下さい。


石巻の東京屋食堂さん。
結弦さんの来店以来、遠方から訪ねて来る人、増えたでしょうね。
私が食事している時も、先に一人でお食事されていた年配の女性が食事を終えて、おもむろに結弦さんのサインの写真を撮って行きました。
お店の方が見ていない時に、シュッと撮ってシュッと出て行かれました( ̄▽ ̄;)
無断で撮影というのはどうも頂けませんねε-(•́ω•̀ )
私はいつも、一応お断りして許可を得ていますけどね。
恥ずかしかったのかしら?羞恥プレイや公開処刑に慣れすぎたヒトがここに…(・∀・)💦💦


東京屋食堂さんのお写真は、散々ネットに流れていますが、一応こんな感じ。











前記事で書いた、一番行きたかった場所というのは、東京屋食堂さんももちろんそうと言えばそうなんですが、本当の本当に行きたかったのは、もうちょっと別の場所です。
石巻には違いないんですけれど。
東京屋食堂さんから更に車を走らせて、着いた所はこちら。




この看板、見覚えあるでしょ?

結弦さんが石巻を訪ねた時に、地元のおじいさんとおばあさんに声をかけられたあの場所。

正確に言うと、今はちょっと場所がずれています。
今の看板は2代目で、結弦さんが見た看板があった場所からは150mほど移動しているそうです。

東日本に住む日本人の一人として、海に近い街に暮らし、津波の脅威に晒されながら生活している人間として、地震だけでなく津波に関しても、あの震災の真実を見ておくべきだと以前から感じていました。
そこで、写真展とポスターラリーだけならば、ギリギリ日帰り可能な旅を泊まりにしました。
足がないととても行けそうにない事も分かっていたので、アイルーに出動要請をかけて長距離ドライブの旅となりました。


町中が工事現場と化したような風景に、心が冷えました。
あっちもこっちも、まるで山を切り崩したり海を埋め立てたりして、新しく宅地造成でもしているかの様な風景。
周りに何もない…。


家が立ち並び、商店街や学校や公園があり、役所や銀行や公共施設があった。
子供が通学路を歩き、犬の散歩をする人が歩いていた。
夜には家々の窓に灯りが灯っていた。
そういう「普通」の住宅地だった。

見渡す限り工事現場。
信じられない思いでした。


テレビで見たあの光景。





結弦さんが見上げて「高え…。」と呟いたポール。
6.9mは、遥か頭上でした。






スイッチを押すとモニターが作動して、津波の脅威を語るビデオが流れる機械が設置されていました。







モニターの横の青いプラケースの中には、ペンとノートが一冊。
雨晒しなので、ノートが濡れないようにケースに入れてあるんですね。
ノートには、この場所を訪れた人たちの被災地や石巻に暮らす人々への思いやエールを送る言葉が。


実際に現地に立ってみて、津波到達点を示すポールを見上げ、初めて津波の脅威をリアルに感じました。
何も無い更地がかつては街だったことを思うと、とても信じられず、こんなにも根こそぎ全てをさらって行ってしまったのかと震えました。


石巻近辺を走る高速道路には、その地点の放射線量を示す「◯◯シーベルト」と書かれた看板が、所どころに立って居ました。
津波避難中の歩行者を轢かないように、注意を促す看板もありました。
宮城も福島も、地震だけでなく津波や原発事故の犠牲になり、今もその傷はほとんど癒えていないのだと思い知らされました。

今まで何度も宮城県を訪れていたのに、仙台市内の街並みや、駅前の賑わい、観光地しか見ていなかったのだと知りました。
頭ではわかっていたけれど、実感が伴わなかったことが、リアルに胸に迫って来ました。

ここはやはり、見ておくべき場所だったのだと…。
津波は英語でもTUNAMIで通じるくらい、津波という言葉が世界的に定着しているのは、日本が津波大国だから。
四方をぐるりと海に囲まれた、小さな島国に、私達は暮らしている。
多数の活火山、休火山を国土に持ち、地震大国でもある。
いつも津波と地震の脅威に晒されながら、生きているのだと思い出しました。


忘れまじ、3.11。


少し話が重くなりましたね。
たまには真面目な話もするんだよww