何が起こっているのか…理解できなかった。ただただ、必死にハンドルにしがみついていた。

車ごと、何かに捕まれて振り回されているような気分だった。
揺れがおさまっているのか?まだ揺れているのか…自分が震えているのかすらわからなくなった。

頭がうまく働かない。

どれくらい…そこで呆然としていたのか…すごく長いようで、実はすごく短い時間が過ぎていた。

しばらくは、脱力感に襲われ…立ち上がれずハンドルにもたれかかった。
深く、深く呼吸をする度に現実なのか、夢なのかと、自分に確めるように問いかけた。

だが…俺の脳は考えることを拒否した。結論は、決まっていた。

『現実であってほしくない』

シンプルすぎる答えだが…それだけだった。

ふっと視界の端に、キリンのぬいぐるみが手帳と一緒に転がっているのがはいった。

『兄さん!!怖いよ、兄さん!!』

…七海。
あいつは…どうしている?考えられるのは…『来る』と言われていた宮城県沖の地震…。
急に、自分の体温が下がっていくかのような…そんな感覚に襲われた。
震源地に…いるんじゃないのか?
キリンは、こてっと横になって…虚ろな瞳でこっちを見ていた。
泣いている…そうだ、七海の所へ行かなくてはならない。

呼ばれている。

行かなくてはならない。
…思えば、やはり俺は冷静ではなかった。本来ならば、ここで連絡をすれば良かったのだ。

たった一言「大丈夫だ。」それをメールなり、災害用の伝言板なりに…残せば良かったのだ。

それすら、思いつかないくらいに…ただ、ただ七海を失ってしまうことを恐れていた。俺自身も『被災者』であり『震源地』にいるなんて、頭の片隅にもなかった。
エンジンをかけなおし…とにかく、ハンドルを握りしめた。
幸いなことに、まわりにはさほど車がいなかったこともあり事故を起こすことはなかった。
車の流れも変わっていた。逆の方向へと無理矢理に回り込む車を横目に、俺はただひたすらにその『海沿い』の道を進んだ。
下手に戻れば渋滞に巻き込まれる…そして、おそらくガソリンの量からしてもアウトになる。

「戻れる…かよ!」

ギリギリ…ハンドルを掴む手に、異常なまでの力がはいる。ワンセグでは、混乱している駅前が映し出されていた。このあたりにいるはずの妹を必死に探した。
その中に、不安そうにしている七海がいるかもしれない。その思いが、俺を突き動かした。
その一心のみで…

津波の危険を知らせる声を…俺は聞き流していた。
人間は、同時に二つのものを処理することを苦手とし、気がつかないままに…もう片方の情報を処理する働きはセーブされるそうだ。

「…なんだ?」

警察らしき人たちが、避難を促していた。
断片的にではあるが…叫び声が耳に入ってきた。

「…みが!は…て…さい!早く、避難を…」

『津波』

あ…俺は、恐る恐る海へと視線をうつした。セーブしてきた情報をさすがに前に出すしかなかった。
明らかにおかしい。
あれだけ大きな地震があったとしたなら…確実に起こるであろう事態を…やっと認識した。

「津波が来ます!早く、高台に!」

はっきりと聞こえた。
ー津波ー
この道は、海に近い。しかし、今からもっと内側に入り込めば…恐らく津波は止まる。それ以上、内陸にまで入り込むことはまずない。それならば、できる限り市内へ少しでも近づきたかった。落ち着くまでは妙に、早かった。

知識におごっていたのだ。名前を言えば誰もが知っているような大学や大学院で工学部に通い、最先端の技術を見てきた。

生命さえもを…産み出しかねない技術の進歩に、酔いしれていた。


自分が一番に技術の進歩に過信する危険さを身をもって知っていたはずなのに…化学に浸りきっていた俺は、多くの学者が溺れていたように…自然すらを、コントロールできるような力を手にいれたような…『歴史』をかえりみないで軽視していたのだ。

本能は、危険を察知していたのかもしれない。内陸へ向かうしかなかったのだ。震えそうになる手だけが…俺の本心を表していた。
異常なまでに冷静に…シュミレーションをしている自分がいた。
どうやら、避難はあまり進んでいないように見えた。まるで、夢遊病のように人々は当てもなく、情報もつかめずただただ不安に押し潰されそうになりながら…高台を目指していた。

「どうする…どうしたら…。」

心臓が高まった。
危険を知らせる声が…反響して頭にはいりこむ。
地震からどのくらいの時間がたったんだろうか?
目の前で、ふらふらしていたお年寄りが転ぶのが見えた。
周囲が手を貸そうにも…誰もがまだ見ぬ恐怖からか、うまく動けなくなっていた。
自分の命を守ることが最優先されるこの状況で…俺は究極の…選択に迫られていた。


『兄さんて、すごいよね!私たちにできないことも…一人でこなしちゃう。うん、映画とかゲームとかの…ヒーローみたい!』

ヒーロー…。
七海の声が、聞こえてきた。こんな俺を…ヒーローと呼んでくれた。
本当の俺は、なにもできない。それを隠すために強がって自分が嫌いでしかたがなかったガキな俺を…

『水無月咲也』

と言う人間にしてくれた。認めてくれた。
そんな七海や涼風のみんながいたから俺は無力でガキなどうしようもない俺を…過去にできたんだ。
水無月咲也は、なりたかった自分の塊だ。

「…水が…」

ふと、目に入った川の底が見えていた。
ここは、本来水がなくなるなど考えられないほどの内陸のはずだった。異常な光景でしかなかった…普段なら見えるはずはない。ここまで、水が引いたとしたならば…

「…予想以上に、時間無さそうだな。」

ふっと、笑って車を降りた。

「ごめんな…七海。」

人のために、飛び込むのが水無月咲也と言うのなら俺は七海が
『会いに行く』
と言う約束をそのために多少時間を破っても怒らないことを知っていた。
多分…泣くだろうけどな。

「でもさ…お兄ちゃんは、不死身だからさ。」

走った。
警察の人たちから、どこに避難を促しているのかを聞いて、転んでいたお年寄りに声をかけ背中にかついだ。
地域社会がしっかりとしている田舎ならば、どこに誰がいるかを把握できていたのだろうが、仙台は田舎とも都会とも言えなかった。目がついたところでは、声をかけたり様子を見るようにしていた。

「水がー!!」
「早く、上にあがれ!!」
「いいから!!振り返るな!」

悲鳴とも怒濤ともとれる…そんな、声が飛び交っていた。
いよいよ…津波が目に見えるほどに近寄って来たらしい。俺は力の限りで坂をかけ上った。
さすがに…苦しい。

「大丈夫ですか?」

すぐに、数人が声をかけてくれた。声を失ったまま、俺におんぶされていたお年寄りを、お願いしますと頼むと、遠くから、若い声が聞こえてきた。

「おばあちゃん!よかった、よかった…本当に、よかった…ありがとうございます、ありがとうございます!!」

お孫さんだろうか?
一人、家に残していた祖母を助けに戻れなかったことを悔やんでいたらしい…涙をふこうともせずに、俺に「ありがとう」と言ってくれた。

良かった。
息をついた。
…俺にでも守れたよ…。
まだ、水はこの場所までは来ていなかった。
さっき見た、川の様子が頭に浮かんできた…俺のイメージが杞憂であることを祈った。

疲れから、倒れ込んでいた俺の耳には…女性がわめいている声が聞こえてきた。どうやら、坂をおりようとしているのを止められてしまったらしい。
金切り声になりながら、その手を払い除けようとしていた。

「行かせてください…助けて…助けてください!お…願いします!まだ、まだ息子が…車のなかに…助けてください!助けてください!」

…車のなかに?
立ち上がるしかなかった。まだ、水はここまで来ていない…助けられるかもしれない。
何よりも…車のなかで、恐怖に震えているであろう男の子を思うと…行かないわけにはいかなかった。

「助けてください!助けて…ください!」

力なく、崩れ落ちた母親と言う女性は…考えていたよりも少し年をとっているように見えた。…いや、このストレスにより…急にそうなったのかもしれない。
なんとなく…最後に見た、自分の母親の姿を重ねてしまった。


「俺が行きます…息子さんはどこにいるのですか?」
周囲の人たちが、息を飲んだのがわかった。蜘蛛の子を散らすかのように、母親と俺の間に道ができた。
その顔には、一様に焦燥感が浮かんでいた。

「あ、あそこの…スーパーの…赤い車のなかに…」

指を指した位置は、そこまで遠くはない。幸いなことに赤い車は一台であり間違うことはなさそうだった。建物や国道を飲み込んだ津波は、少し速度が落ちるだろうと判断した。

「名前は?」

「優斗…ゆう…とです。」
十分だ。
さすがにそれ以上に聞いているだけの時間はない。

「わかりました。俺に任せてください。…こうみえて体力には自信あるんで!」

周りを安心させるために、俺は笑った。涼風で、教えてもらった笑顔が役に立った。
その場で、軽くスクワットをして…俺はまわりが止める言葉を聞かずに…走り出した。

きっと…母親が帰ってきてくれると信じている少年の姿が…幼い頃の自分に…かぶってみえてきた。
俺のお母さんは戻ってこなかった…あんな、悲しみの中…命を落とすことなど…

「んなこと…見逃せないんだよ!」

止めようとする手を、ふりきった。
走れるのだから、走らなくてはならない。できることを諦めてはいけない。
後悔するくらいなら、走れよ!
下り坂は早かった。
足がもつれて、何回か転がった。
人の波に逆らって走っている。人々が止めようとする中を邪魔にならないようにとにかく走った。

「赤…ど…こだ…赤い…。」

鼓動が早くなる度に、迫り来る恐怖が背中を押す。
車を目指した。記憶の中の配置と指差しをしながら確かめた。そしてついに視界の端に、赤を認識し、走った。

「いた…おい、…優斗君!?」

泣いていた少年が顔をあげた。涙がたまった目が俺を見つめていた。

「だ…れ?お兄ちゃん、誰?」

そうだ。今の自分は…「涼風の咲也」ではない。
誰も俺を知らない。
…ためらった…でも…俺はまるであの日泣いていた幼い自分と向かい合っているような気分で…精一杯の笑顔を浮かべ、小さく開いた窓から手を差しのべた。

「拓人だよ、君のお母さんに頼まれてきたんだ。知らない人にいきなり声をかけられたら困るだろうけど…」

落ち着かせようとしている途中で、少年は小さな手で俺の手を握り返し、必死に首を振ってみせた。

「お兄ちゃんを…信じてくれるかい?必ず、お母さんのところに連れていくから!」

「…うん!!」

涙混じりの少年が笑う。
一人で、怖かったよな…。一人で、寂しかったよな…。

俺は、会えなかったけど、君は必ず、お母さんに会わせる。

「じゃあ…まずは車からでよう。お兄ちゃんの言う通りにすれば大丈夫だからな。」

……風向きが変わった。

恐らく、もうあの坂を駆けのぼるのは間に合わないことを背中に感じる。それならば、この子を抱えて電柱にでも木にでも…よじ登ってやろうじゃないか。

「…大丈夫だよ、お兄ちゃんは不死身だから、な。」
妹がいるであろう方向を見つめて、自分に言い聞かせるように呟く。

なにがあっても、この子をお母さんのもとへ連れていく。
なにがあっても、生きて…また七海やみんなから泣きながら「バカ」って言われる。

だからどうか…どこかで懸命にもがいているであろう俺の大切な家族たちが、無事であるよう。

「…拓人…お兄ちゃん!!」
車から出ることができた少年が俺の手を握りしめる。俺はしゃがんで、背中におぶさるように促す。

「よし、一緒に行くぞ。」
確かな重み。
柔らかな温かさ。
生きている証を感じながら、俺は、ただただ重ねた約束を守るために…走り出した。
俺は、きっといつもこうして…駄々をこねながら走り続けてきたんだ。
それが俺の生き方だから。今回も最後まで…
「…走り抜ける!!」
それだけだ。