あの日、大学院で進めていた研究が予想よりも早く一段落したため、俺は急遽仙台へと向かう日付を早めることにした。

すべては偶然だった。しかし、俺には俺が必然的に呼び戻されたとしか…思えなかった。見えない場所で、なにか…そう、なにかが俺『たち』を突き動かしていたとしか思えない。
それがまさか…かえって、俺が涼風に戻る日を遅くすることになるなんて、夢にも思っていなかった。

見慣れた景色。
芽生え始めた新しい息吹き。所々に小さな命の証であり緑が目につく。いつもこうして、徐々に景色が戻ってくる度にテンションが上がっていた。
この景色が…もうすぐ、なくなるなんてことを考える訳もなかった。
よく言われる

『一秒、一秒、を大切にしなさい。同じ明日はないのだから。』

確かに、一秒で世界を変えてしまうようなモノを人間はたくさん作り上げてきた。それだけではなく、いきなり何が起こるかなんて…誰にも予測できない。
理論的に述べるとするならバタフライ効果と言う言葉もある。
小さな蝶の羽ばたきが…どこかで、大きな嵐になることもあるとかいう。
誰がそんなのを調べたんだよ?って信じられないことだけどな。
すべてが繋がっている。
…分からない。
俺にはそれを否定できないなにかがある。
今こうしていることで…もしかしたら、俺の一言が、どこかで誰かの気持ちを変えてしまっているかもしれない。
それが原因となって泣かせているかもしれない。

そうだろ?

だから、俺という人間ができることなんか本当に少ないことではあるが…反面では歴史なんてものはその一人の人間の気まぐれが何十にも重なってできたのではないかとも考えられる。
こうなるとやはり、否定はできない。
なのに、なぜかここだけはそんなことは…無関係に、故郷へと向かう道は、絶対に失われたりなんかしないと思っていた。

短絡的な思考だった。
きっと、浮かれていたんだとも思う。

だから、俺は大切なことを忘れていたんだ…。
幸せな時間が、続いていたから。
甘えていたのだ。
『今』
がどれだけ大切なものであったのかと言うことを。
ここにくるまでに、何回涙を流したのかを。
どれだけの人を傷つけたのかを。
どれだけのことがあっての『今』なのかを。

忘れていたんだと思う。

信じられないことだけど…あの道は、もう見ることはできなくなってしまった。
懐かしく思える場所が…また一つ無くなろうと、否応なしに無くなってしまうことを…なぁ?
もしもがあるなら、あの時の俺に…誰か伝えてきてくれないか?

ーその景色を心に刻み込んでこい…ってさ。ー

気がつけば、もう何度目かの春がまわってきていた。毎日、毎日…数字と向き合い、みんなから無理しすぎだと言われながらも勝ち取った少ない春休みを無駄にしたくない一心で愛する『家族』のいる涼風をめざした。

研究が立て込んでいた。
一応は、大学院生なのだ。自覚を持たなくてはいけないことを何度か言われていた。
しかし残してきた団員たちが気になりすぎて、なにかある度に真夜中の高速道路を走っていた。
少しでも、なにかの変化があれば距離なんて無視をした。睡眠時間だろうが、なんだろうが削ってでも駆けつけていた。

それを…咎められていた。俺が手本とならなくてはいけないのにも関わらず、勉学を軽んじていたからだ。久しぶりに黒崎と暁羅から怒られることとなった。
涼風にいる団員たちは、多くが訳ありで…なにかを探して迷子になったような人ばかりだ。
俺のように、家族とうまくやれてなかったり、病を抱えていたり、とにかく問題を抱えた人間は当時の団長であった暁羅に
『誘拐される。』
文字通りの意味だ。
勿論、暁羅は
『誘拐ちゃうから!スカウトや、スカウト!』
と主張をする。
なかには、確かにスカウトもいたのかもしれないが…俺たちは、物騒に思われるかもしれないが『誘拐』と表現している。
仕方がない。
どう考えても、こっちのほうがしっくりしてしまったのだから。
まぁ…なんにせよ、連れてこられた仮団員たちは涼風で暮らす。しばらくしてやっていけると判断されれば、暁羅たちが勝手に
『家族から預かる。』
ということで、話をつけてくれる訳だ。
そうなってしまえば、団員たちの生活の基盤は涼風での共同生活となる。

そこで、心を許せる人や場所を見つけて…俺たちは、あらためてまた人間となれる。
涼風は『大きな家族』。
笑いあえた、真剣に怒られたはじめてできた自分の居場所だ。

不思議と、ここに来ると抱えていたトラブルが解決することが多い。
いや…変わりに、他の団員たちのトラブルに巻き込まれてしまうこともあるのだが…とにかく、俺たちは変わるのだと思う。
笑えなかった子が、自然と笑ったり、下ばかり向いていた子がいつの間にか自分を認めていけるようになる。

家族のもとへと帰ることになった時、当たり前だが
『成長』していなければ、文句を言われかねない。
暁羅曰く大切なお子さんをお借りしとるんやから『教育をするのは当たり前や』と話していた。
問題ばかりの俺たちを、よくも相手にするもんだと関心してしまう。

もう一つ大切なことは何よりも、『団員が自律できるようにすること』にある。社会で一人で生きていかなくてはならない年齢になったとき困ったりしないために、生きていくための知識をお互いに交換しあう。

ーわかってはいるのだ。
ずっとここにいて、守られているだけではいけないことを。ー

結果として年長組からたくさんの知識を与えられることとなる。
しかし、年長組の人たちも苦手なことは得意な年下から聞くことをためらわない。
これは、涼風の伝統だ。
これがあるからこそ、新しく『誘拐されてきた団員』も『自分の価値』に気がつくことができる。

そんなわけで、俺たちが共有する知識は一般的な国数英等の科目だけにはとどまらない。
医者は医学を、歌がうまいやつは歌を…生きていくために必要なものをみんなで分かち合っていくのが、理想とされていた。

早い話、暁羅から差しのべられた手は俺たちを縛るモノから…新しい未来へと連れ出してくれる道しるべだった。
あの手に触れたことにより、俺たちは新しい未来へ進むチャンスを与えられた。
ーたった、それだけで…未来が変わるのならば…小さな人間の悪あがきとしか見えない行動だって、なぁ?それは…未来を変えていたのかも知れないのだって、思わないか?ー

俺は、お手本となるために必死でやりとげた。
充足感に包まれている。
久しぶりに帰れるのだ、助手席にある小さな緑色の袋を確認するように軽く撫でた。
たまたま、立ち寄った雑貨屋で見かけた桜柄の手帳が入っている。ハードカバーであり、作りもかなりしっかりとしているためそれなりの値段もした。
手帳とは言ってもスケジュールを処理するにはサイズ的にも不適応であり、むしろ日記帳のようだった。

だからこそ、選んだのだ。
俺たち二人の心を本当の意味で繋いだのは、一冊のノートからだった。
まだ、お互いに幼かった。懐かしい日々だ。
二人で、紡いだ毎日は…確実に絆となっていった。
学校が隣の県にあった俺は、いつも帰りも朝も早かった。ゆっくりと話すこともできない。
これでは、せっかくまた出会えたと言うのにいつまでも七海との距離が縮まらないと焦っていた。
だから、俺はいつも七海が宿題として日記をつけているのを思い出して、一冊のノートを手渡した。
可愛いげもなんにもない。ただの大学ノートだった。そこに七海が『悲しかったこと』『嬉しかったこと』『してみたいこと』を書き、机の上に夜食とともに置いておく。
俺は帰ってきたら、眠ってしまった七海を見ながらノートに返事を書いて、またそこに置いた。
交換日記というよりは、俺が先生になったように返事をしていた。だが、たまに朝早くに台所を覗くと七海がノートを目にして、嬉しそうに抱き締めている光景を目にすることがあった。
一目で気に入るだろうと思った。
甘やかすつもりではないが、喜ばせたくて迷うことなく買ってきてしまった。

「黒崎に…また、なんか言われっかな…」

とことん、七海に甘い俺はよく黒崎や暁那さんに注意されていた。確かに自覚もしている。だが、気にしたことはない。
笑顔が見たいだけだから。とりあえず、今日も黒崎にお土産はないことは確かだった。

目的地に最適のインターチェンジより少し手前で高速をおりる。やや寝不足気味な頭をすっきりさせる為にも風にあたる海沿いの道路を、ドライブすることにした。

海を見るのは好きだ。

揺れる水面は、心を落ち着かせてくれる。だから、仙台へ行くときには必ずこのルートを通り、心を洗い流すのが俺の楽しみだった。
しかしこの日・・・なぜか、俺の心は、海を見て違和感を感じていた。
どこまでも深い蒼に・・・吸い込まれてしまいそうだった。
そして、その予感は…すぐに現実のものとなることを俺はまだ知らなかったのだ。

『もうすぐ、アウトレットのあたりだからな。早くついたら、兄ちゃんがなんか奢ってやるからお茶でもするか!』

美容室に行っているらしい妹へ、メールを打った。
七海は便宜上、俺の『妹』とされている。それは、鍵っ子の上に体が弱い七海を守るためにそばにいる理由として結んだものだ。
もちろん・・・お互いに、欠落した存在として安定するための大切な約束だ。
内向的すぎる七海を、自然に笑えるようにするまで見守るために兄になることを決めたのは、自分だった。
小さい頃に病院で天井ばかりを見上げていた七海と偶然に出会い
『七海が寂しいときには迎えにいく』
と約束を交わし・・・五年後に本当に帰り道でうずくまりながら泣いている彼女を見つけた時には、ガラにもなくこれは『運命』だと感じてしまった。

ー守らなくては。ー

はじめは、自分のバラバラになった家族…特に七海と同じ年の妹に彼女を重ねていたこともあった。
しかし、いつからか…七海はかわりなんかではなくなっていた。

守るべき、家族であり愛を注ぐべき相手であり…なによりも『特別』だった。
涼風の中でも、パートナーとしての絆の強さは群を抜いていた。
お互いに依存症だったためにずっと、べったりしていた。それでもよい。そのままでいいと思っていた。そばにいられれば、それだけでよかった。

そんなことが、続くと信じていたにも関わらず…ここまできてもまだ社会が、それを認めなかった。
七海が年齢を重ね欠けていたものを取り戻す度に『兄妹』ではいられなくなったのだ。

必然的に、『妹離れ』をしなくてはならなくなった。
本当は、したくなかったが七海と離れることを選ばなくてはならなかった。
東京の大学院にいってから一年になった。
結局、涼風の団長としての立場と共に七海のパートナーとしての権利も弁護士となってちゃっかり帰ってきた黒崎に託して旅立った。うまくいくはずもなく、心配でたまらなくなり何かある度に行ったり来たりを続けていた理由がそれだった。

ナビの前には、お世辞にもうまいとは言えないキリンのぬいぐるみが置いてある。七海が、寂しくないようにと作ってくれたものだ。いつも、俺を守るようにこっちを見つめている。
それが、ふいにコロンと転げ落ちた。
首の長さのわりには、足元はしっかりと作られていて一度も、落ちたことがなかったので驚いて見つめていた。

ー兄さんは、キリンみたい!だってこんなに背が高いんだよ!ー

180センチを越えていた俺のことを、いつも七海は見上げながらそうやって笑いかけてくれた。
本当なら、俺は・・・欲望に満ちた狼あたりが妥当だろう。

信号で止まったのを良いことに拾おうとした瞬間だった。
携帯からの警告音と揺れは、ほぼ同時だった。

「う・・・そだろ!?」

車を端に止め、音楽をラジオに切り替えた。
その間も、激しく揺れは止まらなかった。
混乱した頭。転がるキリンのぬいぐるみが目についた瞬間に七海の笑顔が、頭に浮かんだ。
早く、早く行ってやらないと…また泣き出してしまう!守らないと…あいつだけは!

背筋に冷たいものが走る。揺れがおさまらない。