~世界で一人の…~

「ーーさんの緊急連絡先はこちらで宜しいでしょうか?」

見知らぬ番号からかかってきた電話で、聞き慣れない…けれど知らないわけではない名前がでてきたため、私は思わず考え込んでしまいすぐに返事をすることができなかった。
確認するように、もう一度電話口に聞こえた声にかろうじて返答をする。
相手は、日本人ならほとんどの人が知っているであろう会社名を名乗った。

「ーーさんに事前研修の件で急遽お伝えしたいことがあったのですが、携帯もご自宅も通じなかったので…」

そう言えば、前に暁羅さんや黒崎さんよりも確実だからと…文句を言ったのに
『かかってくることはないから』
と笑顔で押しきられてしまったのを思い出した。

かかってくることはないからって言ったじゃん。

若干頭の中で毒づきながら、私は努めて冷静に対応をした。
確か、ここ数日彼は暁羅さんにつきっきりだった。一つのことに意識を向けると本当に一途な人だ…きっと自宅へも帰っていないのだろう。


ーーさん。

その名前を聞く度に、なんとも言えない…例えるなら自分に手を振られていると思って手を振り返そうとした瞬間に後ろの人だった事に気がついたような…やるせない?恥ずかしい?もどかしい?そんな感情がぐるぐると回った。

「…お伝えいただけるでしょうか?」

また、私は焦って手元にあったメモを復唱した。

「はい、それで間違いありません。ーーさんと働けるのを社員一同楽しみにしておりますので。」

「…ありがとうございます…失礼いたします。」

そう答えた自分の声がやけに渇いて…別人のもののように感じた。


ーーさんは…来年の春からその会社で働くそうだ。


普通、こういう時は嬉しいはずなのになんだか釈然としないのはなんでだろう?
大学院を卒業したら、こっちに帰ってくると思っていたから?
そんな会社を受けていたことを知らなかったから?
いろんなことがあったからとはいえ受かっていたことを黙っていたから?

夏が過ぎれば秋が来るように…時間の流れと共に、仕事につくことは自然なこと。
…どうして…こんなにも置いていかれたかのような…切なさに襲われるのだろう。

「…ーーさん、就職おめでとうございます。」

試しに口にしてみたけど、やっぱり居心地の悪さしか感じない。
テレビに出ている人が、結婚したと言われて驚いたけど…だから何が変わったの?と言われてもなんにも変わらないのと同じ…。

私の現実ではない。

「…咲也兄さん、就職決まっておめでとうございます。」

ずーん…そう言い換えた瞬間に、私の心が底無しの沼に沈むかのように重くなったのを感じた。
おかしいな?
大好きなお兄ちゃんが、立派な会社に就職が決まったんだよ?
誇らしいことじゃない?
おめでとうってお祝いしないと…笑顔で…。

…妹が、こんな気持ちになるはずなんかない。

「咲也兄さん、就職おめでとうございます。」

鏡を前に、大きな声で言ってみた。

「就職おめでとうございます。就職…おめでとうございます。就職…おめでとうございます。就職…おめでとう…ございます…」

言い聞かせるように何回も繰り返してみたけど…声とは反対に、私の顔はだんだん表情を失っていって…鏡の中の私が凍りついたみたいに私を見つめていた。

「―ーさん…だって…」

嫌だ。

「ずっと咲也でいたのにね…ずっと…兄さん…だったのにね」

あなたが変わってしまうのがたまらなく怖い。

「…大きく…なったね…」
ヒンヤリと冷たい感覚が、鏡につけた頬っぺたから伝わってきた。
鏡の中の私は、確かに時間の流れを感じさせる姿をしている。
変わることが怖い。
だけど一人だけ時間の流れから取り残されるのはもっと怖い。

「…本当、でかくなっちまったよなぁ。」

「…ぇ…?」

不意に聞こえた声は、同じように鏡を覗き込む兄さんのものだった。
身長こそ、昔から大きかったもののグッと大人っぽい顔つきになった…大人だから当然なのかもしれないが…。


「…ーーさん、会社の方が困ってましたよ。」

「悪ぃ、病院だったから携帯電源切っててさ。」

おどけた顔。

…嫌味のように言ったのに名前、言い直さないんだね?

「なぁ、コスプレってさ、最初は劇の仕事で、文句言ってたのにさぁー、それがいつからか自分じゃない自分になれる…しがらみのない自由な気分がして楽しくなってさ。どんどんそのキャラになるのが楽しくなって…今にいたるわけだ。」

いきなりすぎる話題に、私はよくわからないまま振り返ってしまった。

そこには…楽しげな声とは対照的にひどく真剣な目をした男性が立っていた。

「だからかな…楽しすぎて、たまに夢から帰ってきたくなくてそこから動きたくなくなりそうで…でもさ、俺がいつまでもそんな姿見せてたら…お前らだってどうしたらいいのかわからなくなっちまうだろ?」

コスプレの話ではないことに気がついても…なんて答えたらいいのかわからなかった。
私は、いつでも自信に溢れて夢を追う兄さんも大好きだったから…彼が反面に抱えていた不安が痛くてしかたがなかった。

すっと深く息を吸い込んだのがわかった。

「咲也もーーも俺だから。前みたいにーーを否定するのはやめよう!って。たくさんのあり得ないくらいの夢やら、生真面目な考えやらを持つ俺がいて、それが全部集まったのが…」

ふぁっと私の頭に手をのせて、視線をあわせるようにかがみこんだ男性が日溜まりを思わせるような表情を浮かべた。

「今、ここにいるお前のお兄ちゃん…な?」


みどり
しろ
あか
くろ
きいろ
ぴんく
おれんじ……

……すごく懐かしいものが自分のなかでまざりあうのを感じた。
全部があわさったときに出来上がるのは何色なんだろう?
美術で習うような黒とか白じゃなくて…もっと私だけの特別な…そんな色。

「…キレイな…色だといいな…」

目の前にいる人のような立ち向かう強さも勇気も覚悟もないけれど、静かでもいいから優しい暖かい色であってほしいと願ってしまう。


「兄さん、就職決まったのですね、おめでとうございます。」

今日一番の笑顔と言葉をあなたに素直にむけれたことが…私の新しい一歩になることを期待しよう。

「あぁ…あとからちゃんと説明しようって思ってたんだけど順番が…いや、ありがとう。」

少し、ばつが悪そうにはにかんだ顔。
でも、後悔だけはなさそうな晴れやかな顔。
見たことがなかったあなたのそんな姿もすごく好きだなって思えた。



変わることはすごく怖いけど、変わった私は、もしかしたらもっともっと素敵な自分に変われるかもしれない。
そう思えば…そう信じていれば、それも怖いことではないのかもしれない。


いつも泣いていた小さい私の手をひいて、笑いかけてくれた少年も、生意気をいって困らせる私を泣きそうになりながらも抱き締めてくれた青年も…

確かに目の前の男性のなかにいるのだから。

ふと気がつけば、今年ももう九月、時間はトクントクンと…確かに刻む。

「あ、もうすぐ誕生日ですね!!おめでとうございますパート2!」

「う…俺が言うのもなんだけど、頼むからなんのおかまいもしないでいいからな」

「にゅふ~大丈夫です、私がしっかりとみんなを先導して、バッチリ素敵な誕生日にしちゃいますから!!」

「俺は誕生日にななちゃんがもらえたら満足だー!」
「きゃーー…っふふ」

でも、できることなら

「「っ、あはははー」」

でも、できることなら……どんなに変わってしまってもこうやって他愛ないことで

「…本当に、おめでとうございます。」

あなたの笑顔を、これからも見ていくことができたらいいなって…ずっと。
たとえどんなに離れていたとしても、あなたがこうしてこの世界のどこかで笑っていてくれることが、なによりもかけがえのない宝物だから。


世界でたった一人の…あなたの幸せを心から祈っています。