ミッドナイトスワンを観てから早一週間。
色々な方の感想を見たり聞いたりして、また自分の感じたことがあったので追記。
作品への批判としてよく目にしたのが、
①LGBTQ(マイノリティ)をマジョリティが消費している
②凪沙というトランスジェンダーの描き方がステレオ的
という二点であった。
この二点に関しては、まあそれは確かにそうだよな。という感想以外ない。
しかし、それが果たして批判たりうるものであるのだろうか。
いや、少し言葉が違う。「批判たりうるものである」としても、それが「本質的な」批判であるのか、ということだ。
本編で印象的だったのが「なんで私ばっかり」という凪沙のセリフである。
凪沙の置かれている状況は、「性的マイノリティ」が置かれている状況なのではない。
あくまで「私」が置かれている状況なのだ。
つまり、凪沙の生きづらさ=性的マイノリティの生きづらさ、と捉えること自体が暴力的であり、ステレオ的だということだ。
凪沙の生きづらさは、性的マイノリティの置かれた生きづらさと≒(ニアリーイコール)の関係性だ。それは間違いない。
実際、作品中で「なんで私たちばっかり」という言葉も出てきているため、完全な個人の生きづらさと言っているわけではないことを補足しておきたい。
しかし、個人の生きづらさを全体の生きづらさと=(イコール)で考えること自体に私は違和感を覚える。
凪沙は、自分の生きづらさを自分だけの痛みとして引き受けている。
だからこそ、他者と比べて「なんで私ばっかり」なのだ。
この、凪沙が自分の生きづらさを言語化していることに、大きな意味があると私は考えている。
「みんな我慢しているんだからあなたも我慢しなさい」
「もっと大変な人もいるんだから我慢しないと」
そんな言葉で、私たちは自分の痛みから目を背け、痛みを和らげようとする。
そして、自身の痛みを口にすることを憚ってしまう。
それこそがマジョリティからの暴力であり、一つの枠に人間を、人間の痛みを押し込もうとする言説なのではないだろうか。
凪沙の言葉は、そんな世界にはっきりとNOを突きつけているのだ。
「私の痛みは私だけの痛みであって、あなたがどんな痛みを抱えているかなんて関係ない。私は痛いんだ。それを言うことの何が悪い」
そんなこと、もちろん凪沙は言っていない。
しかし、私にはそんな思いが感じられた。
ここで内容をまとめると。
凪沙の生きづらさ=性的マイノリティの生きづらさとまとめることは、凪沙の痛みを他者の痛みと比較、ないしは類似させようとする力が働いている。
その行為自体が、凪沙=トランスジェンダーという枠に押し込める暴力性なのではないか、ということだ。
マジョリティが消費しようが、ステレオ的な描き方だろうが関係ない。
そこには凪沙という一人の人間がいて、一人の人間の痛みと生きづらさが描かれているだけなのだ。
それを「性的マイノリティのステレオタイプ」に押し込めて捉え、批判するその思考こそが、凪沙という一人の人間を捉えていないことにつながるのではないだろうか。
確かに凪沙は「性的マジョリティ」の考えた「ステレオタイプ」の「消費しやすい」トランスジェンダー像だ。
しかし、それを指摘すること自体、「性的マイノリティ」のあり様、あえて言うなら多様性を否定することにつながるのではないだろうか。
葉真中顕さんの小説で、「政治的に正しい警察小説」という作品がある。
簡単に内容を述べてしまうと、「ポリティカルコネクトをコンセプトにした警察小説を書いた結果、主人公である作家は何も書いていない白紙を小説として出版し、絶賛される」という内容だ。
人が言葉を発する時、何かを感じる時、それが絶対的な正義になることはない。
むしろ、正義を振りかざして何かを批判する時、その裏でその正義によって傷を負う人は必ずいるはずだ。
だからこそ、この作品に対する批判に、私は違和感を覚えたのだ。
消費して何が悪い。ステレオタイプで何が悪い。そこで生きる人に目を向けて何が悪い。
と思ってしまうのだ。
さあ取り止めのないことをまた書いてしまった…。
多分、後一回ミッドナイトスワンに関しての感想は書くと思う。
内容は、「かりそめの悲しさ」(仮)だ。
はー、久々にこんなに頭使ったぞい、と。