『気を遣わせることについて』
人前に出ることに気後れを感じさせる、
ひとつの原因として、
気を遣われたくない、という事が、
あるのだと思います。
気を遣うとは、その場にいる全ての人が、
不自由を感じたりしないために、
あれこれ配慮する、という事です。
初めて参加する場で緊張している人に、
一声かけて気持ちを和ませられるとか、
誰かの不用意な発言に素早く気がついて、
気の利いた冗談を言って、
不快感を中和させられたのなら、それは、
気遣いができたと言えるのかもしれません。
気遣いのできる人は、
コミュニケーションを円滑に進める事や、
場の雰囲気を明るいものにする、
という技術に長けていて、
周囲の評価が良く、人気があります。
特に、日本の文化の中では、
察する、という事が重んじられていて、
気遣いができる、というスキルは、
とてももてはやされます。
なので、気遣いのできる事が、
プラスの評価であるのに対して、
気遣いさせてしまう事は、逆に、
マイナスの評価なのだと、
考えられてしまうかもしれません。
積極的な気遣いができなくても、
せめて気を遣わせないようにしよう、
という事を思うのです。
そして、気を遣われるという事に対して、
歳を重ねるごとに、あるいは、
社会的な立場が高くなればなるほど、
寛大ではなくなります。
気を遣われることを、
恥だと思ってしまうのです。
しかし、気を遣う、という、
麗しい行為ができるためには、
気を遣われる人が必要なのです。
だから、気を遣われることは、
全然悪いことではないのです。
気を遣う事ができるという、
素晴らしい賜物を持った人の、
その賜物の素晴らしさが輝くために、
気を遣うのが苦手な人は、
大いに気を遣われればいいのです。
自分が無神経で面倒くさい人間に思えても、
神様はその存在を喜んでくれているのです。
神様は、人間に、
人と人との関係の中で生きられるという、
とても素敵な特権を与えてくれました。
気を遣われたくないと思って、
引き籠ってしまうのは勿体ないのです。
いつも読んでくださり、
ありがとうございます。
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