浪費と消費 | にゃる的な何か

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『浪費と消費』

現代は消費社会と呼ばれます。

作るよりも買うことの方が多い社会、
という意味合いを、
この言葉にまず感じるかもしれません。

しかし、消費社会とは、
それだけの意味ではないようです。

消費と似た言葉に、
浪費という言葉があります。

浪費という言葉は、無駄遣いをするとか、
悪いイメージがあるかもしれません。

しかし、浪費ができるのは、
生活が満たされる最低限を知っていて、
それを上回るものがあるという時です。

自分の生活が満ち足りるための、
最低ラインがはっきりしているから、
それ以上がある時に、浪費できるのです。

なので、浪費と消費は意味が違います。

消費社会の中に生きる私たちは、
消費しなければ満たされないと、
思い込まされているのです。

あれを持っていなければ損だとか、
あの経験ができないのは勿体ないとか、
様々な情報の煽りを受けて、
私たちは購買意欲を刺激されています。

流行に乗っていなければ、
友達の輪の中に入れないとか、
先々のことが心配だから、
備えのためのものを買おうとか、
満ち足りるための条件がどんどん増えて、
いつまでも満たされないのです。

消費者の購買欲を刺激する仕組みが、
社会の中に作られ、
いつまでも満たされずに生きているのが、
消費社会の中にいる現代人の姿です。

なので、消費以外に満ち足りる術を持って、
満ち足りる以上のものがある時に、
浪費できる、という方が幸せなのです。

ところで、聖書の基本的な考え方は、
神様とのつながりを自分が持っていたら、
それ以上に何がなくても満ち足りている、
というものです。

空の鳥や野に咲く花が、
未来のための余計な備えなどをしなくても、
しっかり養われ、装われているのだから、
心配をする必要はないと、
イエス・キリストは弟子たちに語りました。

満ち足りる心を伴う敬虔こそが、
大きな利益を得る道、というのは、
聖書の中の言葉です。

消費社会の中にあっても、私たちは、
神様との関係の中で、満たされます。

いつも読んでくださり、
ありがとうございます。