neko2 写真は生後2ヶ月半、この家に来て半月が過ぎた頃。体重は約800グラム。見るからに日々大きくなっている。昼夜たがわず走りまわり跳びまくり、相手が何であれ挑みかかってきた成果である。あと、もりもり食べることも重要。よくねむることもたいせつ。

 このごろ、自分のシッポは追いかけてもしかたないということを発見した。いくら時計回りに走っても、あるいは左回りに攻めたところで、どうやらキリというものがないらしい。 あと、夜な夜な主人が音楽を鑑賞中、ヘッドホンから垂れるコードが気になってたたかい出し、格闘のすえに見事かみちぎるのに成功した。そうしたら、いたく怒られた。そういうものらしい。

 毎日からだのサイズが大きくなるので、なかなか睡眠ポーズが落ち着かない。そういうわけで、今宵はこんなポーズを試そうとおもうのだけど、いかがなものか。写真とか撮ってないでアドバイスくらいしてほしい、と実はいまおもっている。 まぁさいきんは、そんなかんじ。

 “8 Mile”は、ハードコアラッパー(こう書くと何だかカワイイ感じだが)エミネムの自伝的ストーリー。主役のジミー役(エミネムの本名)を、エミネム本人が演じている。舞台は彼の出身地である1990年代のデトロイト。産業構造の変化に置いてけぼりを食らって荒んだ街並みがしばしば映し出されることになる。
 タイトルの“8 Mile”とは、直接的にはデトロイト市内中心部に横たわる、白人中心の富裕層と黒人を中心とする貧困層との居住区を分ける人種的境界間の距離を指している。この“8 Mile”が作品中ではたびたび象徴的に扱われ、ときに絶対的な壁として、ときにいつか越え出て行くべきゲートとして語られる。

 場末のクラブで開催されるラップバトルのシーンは見モノ。とりわけ最後の優勝決定戦の場面でのエミネムによるラップの実演はさすがというか、気合が漲っていて痛快。バトルを勝ち抜くために採られる戦略はロジカルにはありきたりなものだが、画面の臨場感がそのベタさを吹き飛ばしていた。
 エミネムは役者としても十分堂に入った演技を披露しており感心。ここで Bjork や Madonna、あるいは Faye Wong を挙げるのも良いだろうが、国境を越えるようなスター歌手には演技功者の比率が割に高いような気がするのはなぜだろう。 歌手一般に比べてもしこうした演技との親和性の面で質的に優位に働くような要素があるとすれば、それはそれで興味深い。

 他のキャストでは、エミネムの新しいガールフレンド(Alex)を演じた Brittany Murphy が非常に良かった。とくにエミネムとのセックスシーンで見せた呆けた表情の動きは類稀なものを感じた。他にもエミネムの母役で Kim Basinger、親友役(Future)で Mekhi Phifer("ER"でベントンにいじめられる若い黒人医師をやってた俳優)、グループの女友達の一人に"24"で大統領の秘書役をやっていた若い黒人の女優(名前我不知)など、力量ある面々が脇を固めていた。太っちょの友人 Sol George を演じた Omar Benson Miller も素晴らしく良い。
 監督は"L.A.Confidential"(1997),"Wonderboys"(2000)などのカーティス・ハンソン。DVD特典の監督のインタヴューをみたかぎりでは、想っていたよりずいぶん洒脱な感じの人だった。


"8 Mile" by Curtis Hanson / Eminem, Kim Basinger, Brittany Murphy, Mekhi Phifer, Evan Jones, Omar Benson Miller / 110min / USA / 2002 ☆
chatp 2001年9月11日直後からパリの街角のそこかしこに現れ出した“笑う猫”の落書きを追いかけるドキュメンタリー、という“趣向”の映画。反WTOデモや極右の台頭、W杯におけるサッカー仏代表の惨敗、米英のイラク侵攻といったその後二年間に起こる様々な社会事象がこの作品では、“笑う猫”の図様を執拗に追いかけていく展開の背景とされ、分析されることで異化されていく。夢のあるシニカルとでもいう感じ。
 世事を映し出す場面が次々に流れていくシークエンスで使われる音楽に、イスラムのバグパイプやチベット仏教の声明(しょうみょう)が混じったりする点は興味深い。演出効果に幅を持たせる、コスモポリタンなムードを醸成するなどといった狙いが読み取れるが、昨今のハリウッド映画におけるオリエンタリズム的な使用法にそれはダブる。自覚的であるとすれば風刺の色味もまた変わるが、焦点がブレてくるだけにそうとも思えないところもある。

 作品の後半に入ると、“笑う猫”の図様が実は非常に古い由来を持つらしいことが次第に明らかにされていく。ファン・アイクの<アルノルフィニ夫妻の肖像>のよく知られた中央部の丸鏡にそれは映り込み、ゴッホの<画家のアトリエ>や中世の聖母子図はもとより、ラスコーの洞窟壁画においてすらはっきりと描き込まれているではないか、という具合。
 この作品でもう一つ興味深かったのは、冒頭に上げたデモや選挙、W杯やイラク戦争と同列の“ネタ”として、クルド労働者党を率いたオジャラン氏(Abdullah Ocalan)逮捕を巡る問題が挙げられていたことだ。日本のメディアでは考えられない事態だが、考えてみればたしかにこの問題は大きな国際問題として取り上げるべき要素が強い。自国と自身の、外国人の人権に対する意識の低さを見せ付けられたようで束の間ショックを覚えた。

 以下、日仏会館HPより作品説明文を転載(現在同HP上では削除済):
 パリの屋根の上で笑う猫の絵が頻繁に現れたことは何を示しているのだろうか?2001年9月11日のテロ事件直後、パリの屋根の上に猫たちが現れた。クリス・マルケルは、その「笑う猫たち」の落書きを追いながら、過去2年間の世界の事件について再発見し、分析する風変わりな日記風の作品を撮った。「この作品をMr.猫と、彼のように、新しい文化を生み出しているすべての猫たちに捧げる」(クリス・マルケル)。
 猫としては、なかなか勇気づけられる発言ではないか。


"Chats perchés" by Chris Marker [+scr] / 59min / France / 2004 東京日仏会館 エスパス・イマージュ 2005/1/23・29上映 [過去blogより移行] ☆☆

 架空の画商マックス・ロスマン(Max Rothman)と画学生時代のアドルフ・ヒトラーを主人公とした作品。去年の暮れに Robert Carlyle 主演のテレビドラマ"Hitler: The Rise of Evil"を観ていて、「なぜにいまヒトラー?」との思いが重なり借りてみる。

 この作品、何より光っていたのは美術の手際で、舞台となる1910・20年代のミュンヘンの街角や、当時の人々の生活様式、風俗の再現に異様なほどの執着を感じた。単に画面に古色を添えるだけでなく、窓ガラスや家具類、各種の生活用具などといった室内インテリアにバウハウスなどの先進的なモードを大いに取り入れており、カメラが丹念にそれらを映し出していく。制作にハンガリーがからんでいるのはロケ地として重用したからだろう。これは意外な掘り出し物だったなと満足して美術スタッフを確認した所、“コックと泥棒、その妻と愛人”などグリナウェイ作品を複数手がけている Ben van Os だった。撮影は Pierre Gill。

 話を戻せば“Max(アドルフの画集)”はハンガリー・カナダ・イギリスの共同制作、"The Rise of Evil"はアメリカCBSの制作で、どちらも2002年に撮られている。2001年9月11日のテロをどう克服するかというところで、“他者”への理解を深めたい、あるいは促したいという心理的機制に、提出された構想案がうまく載ったというところだろう。たとえば同じアメリカの制作会社HBOが2001年秋に発表した“Band of Brothers”などと比べると、ナチに駆動される‘普通の人々’に対する視線の変化が明確に読み取れる。
 また“Max”が架空の画商という媒介者を準備することで、ヒトラーの“そうはならなかったかもしれない”可能性を仄めかすのに対して、"The Rise of Evil"はドキュメンタルな趣きを添えることで“こうにしかなれなかった必然”を納得付けようとする、その方向性の対照はそのままイスラム原理主義勢力に対する欧米の態度の差に通じているようで興味深い。(後者に備わるこの偏狭さはカーライルの好演によってかなり掬われてはいるものの)

 公園の茂みにランプを吊るす小鳥売りや、第一大戦に敗戦した名残で鉄くずの山と化している廃工場の描写など、ディティールまでよく作り込み、撮り切っていた。セリフの端々に、「エルンストは俺よりハンサムか」とか「今度のオープニングにはデュシャンも呼んでるぞ」、「ではクレーなどはいかがでしょう」などと当時の前衛芸術家たちの名がぽんぽん出てくるのが面白い。
 監督はメノ・メイエス、主演はジョン・キューザックとノア・テイラー。メイエスはスピルバーグ作品などの脚本を長く書いてきた人らしい。画商の妻役で翳のある知的な女性を演じたモリー・パーカーなど、脇役のキャスティングも巧い秀作。


"Max" by Menno Meyjes / John Cusack, Noah Taylor, Molly Parker / 109min / Hungary, Canada, UK / 2002 [過去blogより移行] ☆☆

 “トレイン・スポッティング”[1996],“ザ・ビーチ”[1999]のダニー・ボイル監督作ゆえ、他の要素はともかく映像と音楽のスピード感だけは期待できると思って観たのだけれど、期待以上に楽しめた。というか、どんどん巧くなっている。“ザ・ビーチ”はやや落ちたけど、“28 Days Later”を込みで考えれば一発屋的な評価は彼の場合には当たらない。

 この一点を外して観てしまうと、この映画のストーリー設定は基本的にはロメロ&アルジェントの古典的傑作“ゾンビ(Dawn of the Dead)”[1978]やカプコンの同名ゲームが原作の“バイオハザード(Resident Evil)”[2002]のコピーで、ゾンビの巣食う都心エリアでのサバイバル&脱出劇が映画の全編を占めるから、背景設定の詰めの甘さとか、後半になってアクションシーンだけが前景化してくることの凡庸さとかがネガティヴポイントに映ってしまうことになる。だがむしろ、賢しげにそんなものをこの監督に求めることの方が的外れなものにも思える。100分間たるむことのないMTVみたいなグルーヴのあるこうした作品をこれからも撮り続けてくれるなら、猫的にはこのうえない。

 作品後半で異様なオーラをまとって登場するウェスト少佐の以下のセリフには、クライマックスで主演のキリアン・マーフィが見せる怪演の印象とも相俟って、現実認識と表象を巡るダニー・ボイルのディレクティングに特有の志向性がコンパクトに言語化されている観がある。
 “……This is what I've seen in the four weeks since Infection. People killing people. Which is what I saw in the four weeks before Infection, the four weeks before that...before that... As far back as I care to remember, people killing people. Which to my mind puts us in a state of normality right now.”
 ちなみに撮影監督はアンソニー・ドッド・マントル。この作品と“ドッグヴィル”[2003]とでヨーロッパ映画賞撮影賞を獲得。脚本は“ザ・ビーチ”の原作者で売れ線小説家のアレックス・ガーランド。どうりで歯切れが良いわけだ。


"28 Days Later" by Danny Boyle / Cillian Murphy, Naomie Harris, Brendan Gleeson, Megan Burns, Christopher Eccleston / Alex Garland [scr] / Anthony Dod Mantle [Cinematographer] / 112min / UK, US, Holland 2002 ☆☆☆

 森達也のドキュメンタリー作品“A”が、上祐逮捕後のオウム真理教における広報役を担う、荒木浩の日常を通して映し出すもの。死骸に群がるハイエナのように獰猛なテレビ各局の取材クルーたち、堂々と不当逮捕を試みる刑事たち、中身の無い同調圧力を嵩に排他性をむき出しにする地域住民たちの、どこまでも浅薄にうごめく表情筋の連なりのおぞましさ。渦中にあって、次第にやつれ擦り切れていきなお教団を離れずにいる若い信者たちが時折放つ、外部社会にその所在を明かすことはすでに諦めているのだろう暖か味のある人間臭さ。

 生活をつかさどる幾つかの重要な論理が転倒して見えることを除くなら、荒木浩の日常を生きる姿勢、語る信念はむしろ真っ当なものである。虚飾にまみれた俗事を忌避する思考すら、誰しもが人生のある時期抱えて当然の、至極生真面目なものにしか映らない。そして何より、教団とそこで生きざるを得ない仲間たちを支えるという役割に、決して安住し切ってはいない。しばらく寝かせて考えてみたけれど、どう考えてもこの人は、根っこの部分で正常だ。彼が悪で、この国の大半が悪でないと言えるならそれはなぜなのか。たとえば公判も始まらぬうちから、周りの人に迷惑をかけて云々と責め立てるヒステリックな近所の主婦らしき人物は、自らの生活が周囲に強いているだろう犠牲の在り処を、どれだけ自覚しているというのだろうか。自らの外部を目を向け、そのことの痛みを十全と自覚しているのであれば、ああも硬直した正義心を満面に湛えることなど、本当にできるものなのか。登場する刑事たちや記者たちとも同様に、他者へと向けてああも容易く高みより裁き切った視線を向けられるものなのか。

 その実そこに覗けて見えるのは、彼ら若い信徒たちを媒介にして合せ鏡のようにして互いが互いを映し出し、互いに映り込む、サリン事件の首謀者たちとメディア記者や刑事や“良識ある”一般市民からなる世間との双方に潜む相似形の闇である。自らの抱えるその闇に目を背け、自らの写し身にのみ排撃の気炎を巻く暗愚である。あなたはこの青年たちを裁き排斥することで、いったい何を守ろうとしているのか。この作品はそう問うてくる。


“A” by 森達也 / 荒木浩, 森達也 / 135min / 日本 / 1998 ☆☆

 2004年、巨大企業ウェイランド社の情報衛星が、南極大陸の地下深くでの謎の熱源の発生を探知する。衛星からのデータを解析した結果、それが世界最古の文明が生んだ古代遺跡だと判明する。経営者であることに誇りと同時に虚しさをも感じるウェイランド社CEOのチャールズは、自身による現地調査を決断。各分野の専門家を招集し、南極に向かう。

 “アイ,ロボット”や“キル・ビル vol.1”の項にも述べたが、こうした現代ハリウッドの商業娯楽映画に作品世界のもつ物語性や品格、真性の意味での芸術性を求める姿勢は直截に言って‘もったいない’。制作の側はすでに構造的な意識転換を終えている。観る側はその変化に寄り添い、大規模な資本の投下を以て展開される視覚的イリュージョンをのみ楽しむスタンスを採るのが最も‘ペイ’すると個人的には考える。
 その伝でいけば、舞台となる遺跡のデザインや、南極大陸の氷上にあり地下遺跡の上部に位置する19世紀に廃棄された捕鯨基地のセットなど、視覚的に楽しめた要素はかなり多い。エイリアンとプレデターの格闘シーンも、プレデターの人型の身体に対する、エイリアンの特異な身体構造から生み出されるアクションはよく練られており見応えを感じた。

 その意味ではブログ等であれこれ書くのはあくまで二次的な享楽に過ぎないが、そのうえでなお一つ気になった点を挙げるなら、クメールとアステカとエジプトの混合ゆえに、世界最古の原型的な文明だというロジックはあまりにもしょうもない。言うまでもなくクメールもアステカも隆盛を極めたのは12,3世紀の話で、場を移せばハプスブルクや鎌倉幕府の時代である。たしかにエジプトに加えてメソポタミアやインダスでは醸す神秘性に目減りはあるが、せめてオルメカや三星堆あたりを出してほしかった。三星堆のややこしいデザインとか、うまくデフォルメすればエイリアンをデザインしたH・R・ギガーのセンスに絶対合うと思うのだけど。
 もう一点。“フレディvsジェイソン”、“ゴジラvsガメラ”など、人気の凋落しつつある同ジャンルのキャラクターを対決させるという手法はいかにも商業娯楽映画にありがちだが、その対照性を押し出す要に駆られるあまりか、各々のキャラクターが元々持っていた魅力を出し切れずに終わることもまたありがちなのに違いない。人型ゆえにかプレデターが複数の個体間に人格の差異をも感じさせる表現を施されていたのに対して、エイリアンの方には映画“エイリアン”シリーズが育んできたような存在論的な深みが一切欠けていた。とりわけ女王蟻的なマザー・エイリアンが、‘こいつを倒せばアガリ’という以上に何の含みもないボス・キャラとして消費されていたのは残念。
 最初に作品内世界観を総覧し、後半はアクションにのみ集中するという“バイオ・ハザード(Resident Evil)”と同様のポール・アンダーソンの制作手法は、シンプルで良い。何よりその衒いのない率直さが良い。アクションが見せたいんだそれだけさ、っていう。


"Alien vs. Predator" by Paul W.S. Anderson [+scr] / Sanaa Lathan, Raoul Bova, Lance Henriksen / 100min / USA+Canada+Germany+Czech Republic+UK / 2004 ☆
lostintrans ソフィア・コッポラの映画はどこか捉えどころに欠けてみえる。その捉えどころのなさはときに、ガーリッシュとか癒し系などという、いかにも無粋な言葉たちにより彼女の作品が掬い上げられてしまう原因になっているようにも思うのだけど、あたしが彼女の映画を好む理由もまたしかとそこにある。

 この作品はタイトルの示す通り、周囲の人や環境と主人公たちとの文化の差異や距離の開きが引き起こす内面の葛藤に焦点が当てられているのだけれど、そこで扱われているのが飽くまで“communication gap”であって、“disscommunication”ではないところはこの映画のミソになっている。
 沢木耕太郎が劇場での公開時前後に朝日新聞で、この映画を「日本人への視線にいやな感じを持った」としてどちらかといえば酷評していて、それはこの映画への一般的な評価においておそらく一方の側を代表するものではないかと思うのだけど、おそらくこのミソの部分を彼(と彼ら)は取り違えて観てしまったんじゃなかろうか。

 孤独感にまみれた主人公の視点を通して映し出される新宿や銀座の夜景のもつ温度はたとえばウィンターボトムのそれを想起させる巧さがあるし、ここで描かれる日本人たちの醸す可笑しさに感じるものはハリウッド映画一般にありがちな無意識的蔑視のそれではなく、むしろピーター・チャンによる傑作映画“甜蜜蜜”(邦題『ラヴソング』, 香港, 1996)に描き出される、ニューヨークの‘オラが天下’的な白人たちを映しだす眼差しの優しさに近い。
 そこにしっかりと温度や優しさが感じられるのはたぶん、それらギャップの存在などほんとうはどうでもよいことで、表現の質を決める要素になどなりえないという制作者の思惟が作品の基底に流れているからで、この映画ではラストのワンシーンがそれまでのストーリー展開すべてに確とした輪郭を与える鍵として仕掛けられているのだけれど、捉えどころもないままに、その仕掛けのみがすんなりと功を奏してしまうように全体を配するソフィア・コッポラの技量はやはり、しばらく目が話離せない。


Lost in Translation” by Sofia Coppola / Bill Murray, Scarlett Johansson / USA+日本 / 2003 シネマライズ 2004年セザール賞外国語映画賞 [過去blogより移行] ☆☆

 2035年、新型のロボットの普及が始まる。すでにロボットは人々の生活に不可欠のものとなっていたが、この最新鋭のロボットには重大な欠陥があった。開発者の博士は謎の事故死を遂げ、ウィル・スミス扮する主人公の刑事は事件を探るなかでロボットたちの異変に気づく。

 アイザック・アシモフの古典的SF小説を下地におくこの作品は、そのプロットの大枠に目新しい要素は取り立てて何もない。ロボットが自らのプログラムにあらかじめ組み込まれた‘人間を襲ってはならない’等の禁則を破る筋立ても、その背後に単体のロボットたちを統べる人工頭脳の存在が明らかになっていく構図も、すでに見飽きたものの域を出ない。
 絵的なディティールにしても、この新型ロボットのフォルムはどうみても Chris Cunningham の Bjork PV や“Ghost in the Shell”の亜流だし、都市やインテリアの作り込みにもたとえば“マイノリティ・リポート”のようなこだわりはみられない。

 それゆえこれらをもってこの作品を駄作と断ずるのはたやすいが、個人的にはそうした評価は少しポイントがズレているように思う。最近は東京にもシネマ・コンプレックスがずいぶん増えたが、海外の、とくにアジアの大都市で映画がどのように観られているかに実地に触れれば、このことの理由はわかる。すなわち市場があぶり出す最大多数の観客にとって映画はすでに、ウーファーをも使用した多層的な音響効果や、リラックゼーションシートといったサービスの行き届いた環境のなかで楽しむイリュージョン装置に他ならず、映画作品本体の質は‘趣味’の選択を左右する最終的なソフトの微細な差異としてしか機能しない。そこではプロットの精神性、先進性よりはむしろ、体感的享楽性、ステロタイプなカタルシスへの導きの有無こそが問われる。とかく大都市の情報メディアインフラにおいて日本や欧米は既存の体制が強固な分、新興の国々に多くの面で先頭を譲っている。映画の配給体制はそのささやかな例の一つだが、個人の作家性よりマーケテット・リサーチが重視されるハリウッド映画ならではの未来像がそこには茫洋として浮かぶ。
 そして‘体感的享楽性’についていえば、この作品は完全CGによる、人型だが人ではないゆえに可能となるロボットの超絶的アクションは観る目に極めて快い。‘カタルシス’についていえば、ウインクすることの意味や人間の感情という不可解なプログラムを必死に学び、会得していくロボットの姿、トラウマを抱え奔走する刑事の姿に涙する人はきっと大いに涙する。その意味でこの作品は無難な水準を行っている。悪かない。

 極私的には、刑事に寄り添う女性研究者が彼と恋愛関係に落ちるよう描かれなかったのはやはり、彼女が白人でウィル・スミスが黒人だからなのだろうということ、プログラムゆえのこととはいえ博士を殺してしまったロボットと刑事とがラストで友情を確かめ合ってしまうことの禁忌のなさ、等が気になった。女性研究者を演じたブリジット・モイナハンは“リクルート”に続きいい感じに仕上がってきており、今後が楽しみ。


"I, Robot" by Alex Proyas / Will Smith, Bridget Moynahan / 110min / USA / 2004 ☆☆
本blogの表記について以下まとめます。要なればご参照ください。

▼カテゴリー分け(ブログテーマ一覧)の表記

 多くの映画が国際的な協働により制作されるなかで、一つの作品がどの国/地域のものかを厳密に問うことは年々難しくなっています。このカテゴリー分けはあくまで便宜的/恣意的なものとお考えください。

 “映画 〔北米:メジャー 21世紀〕”の‘メジャー’とは、ハリウッドのいわゆる"Big7+1"(20th Century Fox, Paramount, Universal, Columbia[SPE], Warner, Disney, MGM, Dream Works SKG)制作による作品を指します。
 上記以外の独立プロダクションによる作品や、カナダ映画一般は“〔北米:インディーズ〕”に含まれます。ただし、"Big7+1"制作の作品でも、質的にインディーズ志向の強いものはこちらに加えることがあります。 おおよそ
大作ハリウッド映画はメジャー」とお考えいただければ適当かと。

▼映画記事中の表記

【各記事のタイトル】 四文字評 “作品日本語タイトル” 監督名 [制作地域/年]

【記事末尾】 "作品タイトル原題または邦題" (作品タイトル英題または邦題) by 監督名 / 出演者名 / 特記(脚本/美術/音楽等の担当者名) / 時間 / 制作地域 / 制作年 主要映画祭受賞実績 “☆☆☆”評点

※映画祭受賞実績の項には、主にカンヌ国際映画祭パルムドール/グランプリ、ヴェネチア国際映画祭金/銀獅子賞、ベルリン国際映画祭金/銀熊賞などの受賞歴があった際に記します。米英日のアカデミー賞やフランスのセザール賞などは主な対象を国内制作品とする限定的性格が強いため、海外作品の受賞を除いて基本的に扱いません。

※記載事項に誤り、抜けがあった際にはお知らせいただければ幸いです。

▼文芸記事中の表記

【各記事のタイトル】 『作品日本語タイトル』 著者名 [執筆地域(海外の場合)/執筆年]

【記事末尾】 "作品タイトル原題" 著者名 / 翻訳者名 / 出版社名 / 執筆地域(海外の場合) / 執筆年

▼展覧会記事中の表記

【各記事のタイトル】 ≪展覧会タイトル≫ 展覧会場

【記事末尾】 ≪展覧会タイトル≫ 展覧会場 展覧会会期

以上です。後日加筆訂正の可能性があります。