森達也のドキュメンタリー作品“A”が、上祐逮捕後のオウム真理教における広報役を担う、荒木浩の日常を通して映し出すもの。死骸に群がるハイエナのように獰猛なテレビ各局の取材クルーたち、堂々と不当逮捕を試みる刑事たち、中身の無い同調圧力を嵩に排他性をむき出しにする地域住民たちの、どこまでも浅薄にうごめく表情筋の連なりのおぞましさ。渦中にあって、次第にやつれ擦り切れていきなお教団を離れずにいる若い信者たちが時折放つ、外部社会にその所在を明かすことはすでに諦めているのだろう暖か味のある人間臭さ。

 生活をつかさどる幾つかの重要な論理が転倒して見えることを除くなら、荒木浩の日常を生きる姿勢、語る信念はむしろ真っ当なものである。虚飾にまみれた俗事を忌避する思考すら、誰しもが人生のある時期抱えて当然の、至極生真面目なものにしか映らない。そして何より、教団とそこで生きざるを得ない仲間たちを支えるという役割に、決して安住し切ってはいない。しばらく寝かせて考えてみたけれど、どう考えてもこの人は、根っこの部分で正常だ。彼が悪で、この国の大半が悪でないと言えるならそれはなぜなのか。たとえば公判も始まらぬうちから、周りの人に迷惑をかけて云々と責め立てるヒステリックな近所の主婦らしき人物は、自らの生活が周囲に強いているだろう犠牲の在り処を、どれだけ自覚しているというのだろうか。自らの外部を目を向け、そのことの痛みを十全と自覚しているのであれば、ああも硬直した正義心を満面に湛えることなど、本当にできるものなのか。登場する刑事たちや記者たちとも同様に、他者へと向けてああも容易く高みより裁き切った視線を向けられるものなのか。

 その実そこに覗けて見えるのは、彼ら若い信徒たちを媒介にして合せ鏡のようにして互いが互いを映し出し、互いに映り込む、サリン事件の首謀者たちとメディア記者や刑事や“良識ある”一般市民からなる世間との双方に潜む相似形の闇である。自らの抱えるその闇に目を背け、自らの写し身にのみ排撃の気炎を巻く暗愚である。あなたはこの青年たちを裁き排斥することで、いったい何を守ろうとしているのか。この作品はそう問うてくる。


“A” by 森達也 / 荒木浩, 森達也 / 135min / 日本 / 1998 ☆☆