別れた妻を探している。このブログを妻が見ないだろうか?あるいは妻を知る人が見てないだろうか? 気の付いた人がいたらコメントで知らせて欲しい。


 私は近い内に必ず死ぬ。これは担当医師から言われた。明日かも知れない。年内一杯かも知れない。だから急ぐ
 

 白血病で一年間の闘病生活を送ってきた。詳しくは闘病日誌テーマで書き留めてきたので、同病者はデータを利用して頂きたい。
 

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 2000年4月、私は10年間寄り添った妻と離婚した。二人とも40歳だった。

 

 30歳の時、私と妻は東京中野のスナックで出会った。10人ほどのカウンターだけの小さなスナックだった。姉(ママ)とその妹の二人の在日朝鮮人が店を経営し、時々オモニ(ハングル語で御母上)が店を手伝っていた。私はこの親子に可愛いがられた。
 

 私はまだ青二歳だった。仕事を深夜に終え、朝鮮家庭料理の匂いがするこの店に通うのが日課だった。遅くまでこの店で呑み帰宅した。アパートも会社もこの店の近くだったので、朝10時頃眠い顔をして出勤した。
 

 ある日、私と同じ30歳で、背のスラリとした髪の長い中国人女性がこの店で働き始めた。日本語はほとんど話せない。ニコニコ私を見ている。近くのアパートに住み、昼間は日本語学校に通っていた。アルバイト募集のチラシを見てこの店を選んだらしい。よく一人で来たものだと感心した。


 ある日の閉店後、私は彼女をアパートまで送って帰った。3畳一間で風呂は無く、トイレも共同だった。部屋の真ん中に、ダンボール箱が1個置かれ、その上に小さな茶碗と箸が載せてあった。布団も無かった。私は悲しくなったが、自分も似たような暮らしだったので、二人で笑った。
 

 それから二人は、すぐに仲良くなっていった。彼女はアパートを解約し私と一緒に暮らすようになった。どんどん彼女は日本語が上手くなっていった。
 

 次の正月、私は北海道の実家に彼女と一緒に帰省し、真面目な両親に彼女を紹介した。彼女は最初は緊張していたが、持ち前の積極性と明るさで、次の日には父とカラオケでデュエットしていた。父は嬉しそうだった。彼女は母の料理を手伝ったりした。母も楽しそうだった。


 二人は東京に帰り、彼女の故郷のハルビン市で結婚した。日本から披露宴に出席したのは私だけである。両親から怒られたが、両親には何もしてほしくなかった。本当なら彼女と二人だけで済ませたかった。私の両親にはさすがに悪かったと思い、後で中国旅行をプレゼントした。
 

 それから10年、私と妻は一生懸命に働いた。私は出世し、少し上等の賃貸マンションに住めるようになった。私は仕事の忙しさもあり、だんだん妻を放っておくようになった。彼女は新宿のクラブを自分で探しアルバイトするくらい強い性格の持ち主だった。しかし寂しかったのか、中国から妹を呼び私と三人で暮らし始めた。
 

 妻と私が40歳になった頃は、私は会社でチームリーダーとして頑張っていた。そして、妻から離婚を申し込まれた。無理もない。まだ子供も授かっていなかったし、私は家を顧みなかった。
 

 区役所で離婚手続きを済ませた後、妻とは一回会った切りである。お互いに50歳の時、JR山手線で同じ車両に、偶然二人が乗り合わせた。私は席に座り彼女は立っていた。「元気だったかい?」私は小さな声で彼女に囁いた。元妻はニコニコしてコックリとうなづいたので、私は次の質問をしなかった「誰かいい人出来たかい?」


 それからは彼女とは音信不通になってしまった。私は60歳もすぎ、母親の介護で故郷に帰った。そして私は恐ろしい病気を発病した。冒頭で述べたように、白血病だった。そして、後で分かったが、染色体異常が原因だった。
 

 私はハッとした。染色体異常が原因だと子供を授かるのは困難である。私はその事も知らずに妻と離婚してしまった事を後悔した。妻と会って謝りたい。もっと早く私に生殖能力が無いことを知っていれば、早く検査や治療を進めていた。


 離婚当時、彼女は40歳だったので、再婚し出産したかもしれない。離婚当時、永住権を取得していたので、戸籍や住民票を調べれば消息を追跡できる。しかし、中国に帰った場合は難しい。私は昨夜から、親友の中国人にも手伝ってもらうことにした。東京の入出国管理事務所や、故郷の役所、日本の領事館に当たらなければならない。他に探す方法を知ってる方は教えてもらいたい。


 私は今は歩くのもやっとだ。長くは生きられない。早く進めなければならない。

 

以上