【《アナタはワタシでワタシはアナタ》という意識で成立していた『時代?-意識-』から、《ワタシの中のアナタ》という意識へのシフト】
[桃のはなし-美しき偽り-]
ボクが昔5才の頃、おばあちゃんに桃を剥いて貰っていたときのこと、
おばあちゃんは桃の種から遠い、周りの甘い部分を果物ナイフでとってはボクにくれていた。
おばあちゃんはボクに″甘くて美味しい部分を食べさせたい″という一心でくれていたのだろう
-″自分の喜びを自分よりも相手に″という意味で-。
おばあちゃんは種の周りの酸っぱい部分だけを食べては「ああ美味しい♪」と微笑んでいた
-「甘い部分はもっと美味しい、でも″『ワタシ(おばあちゃん)』はこれでも十分に美味しい″という意味で-。
ボクは『おばあちゃんが甘い部分を食べていないのに喜んでいる姿を見て-「酸っぱい方が『おばあちゃん(ワタシ)』は好き♪」と偽っている姿を見て-悲しい気持ちになった。
ボクが「おばあちゃんも甘いところ食べてよ」といってもそれでもおばあちゃんは「直人が喜んでいるならそれでいいの♪」といい続けた-相手のために偽った-。
桃を食べあって喜びあっている世界で
《桃を食べて喜んでいる》
のではなく
《相手の喜びを見て喜んでいる》
したがって
《桃も美味くなっている》
のである。
あながち
「ワタシはこれでも十分に美味しい」といったおばあちゃんは本当なのであって偽りではない-『一見は-今では-』-。
だから「本当なんだよ」という-繰り返す-。
《桃の甘い部分は食べていない》という事実。
俺は当初「桃の甘い部分を食えババア-偽るなババア-」と言っていた-悲しんだ-だけなのだ…
《ワタシはアナタでアナタはワタシ》という精神であることでも十分に美しい世界を見ていられることは事実である。
[ワタシの中のアナタ-『自分(瞬間)』の起源-]
アナタの『今見ている世界-宇宙-』は自分の体の中です。
アナタが死ねば宇宙も無くなります。ほんとです。
今
アナタの宇宙に安田直人がいる。
そこでは(も)
『ワタシ-アナタ-』が悲しむと安田直人が悲しむのは当然のこと。
安田直人を悲しませないにはワタシが悲しまないこと。
ワタシが悲しまないには安田直人を思うこと。
ただし
″ワタシが悲しまないように″と囚われないこと。
だが、安田直人を思ったからといってアナタが悲しまないとも限らない。
§偽ることが許されていない§からである。
そこでは「何が良くて何が悪い」といった概念はない-ワタシは「何が良くて何が悪い」と言っているわけではない-。
そういったモノ-そういった場所-だよ
ということ