『言葉の罠-思考癖-』にかかったときの対処法 | 此処へ来たのはそなたの魂の上昇を意味する!汝意思することを行え!!

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二元性をよく見つめられる《塲》となることを願っている記事です

 

 

 

『二元の果て-△▽の周りの膜の中心核-』あるいは『楽園の扉の前-樹海の最終地点-』においてアナタが『罠-自らの思考癖-』にかかるならば最後の落とし穴に落ちることだろう。『美しさの魅力-見たことがない景色ゆえ-』に見とれて、落ちたことにも気づかぬ万華鏡のような世界である。『身近な例-三次元の呼び名-』でいうと「幻想」と呼ぶ。

 

 

 

思ったことを瞬時に言えないのは自分の魂(Me)がたとえば対象物が人であれば対象の魂(Me)の性質を汲み取り自分(I)に自分の魂(Me)が『異常-応対方法がない事-』を知らせているためである。

 

他人に自分の、仮に「癖/性質-オーラの色-」を指摘され続けると、自分は″『否定されている-求められている-』″という錯覚を起こし、その場から立ち去ろうという『心-感(五感の総合感覚)-』の働きが生じる。

 

-他人に指摘はされてはいるもののアナタにとって解決に必要な概念(カルマ)である。よって″アナタが用意した人(モデル)″な訳ではあるが-

 

それ故「その癖はその内に直すから時間を″クレ″」とするならば、試練を″与えられている″ということが忘れられている状態である。

 

いわゆる「山羊」である。

 

羊はいかなる状態においても与えようとする性質にあるため、″常に与えられている状態にある″ということを忘れてはいない。

だから羊はこういった鳴き声では鳴かないのである。

 

さらには山羊は「こういった鳴き声」の″クレ″に対しても「『クレ』なんて言っていない!」と言葉の言った言わないの連鎖をし始める。『本質-目的-』からは遠ざかる一方である。

 

このように

山羊(そういった状態の人)に対して何をどう工夫して言っても、言っていることがわからない領域に置かれてしまっているので、距離感を縮めようとする行為も、もはや嫌悪を与えていることになる。

 

ここでもう一度あえていうが山羊とはその状態を指す喩えに他ならなず、羊が山羊にもなるし、裏を反せば、山羊が羊にもなる、のだから″どうだっていい″こと(表現に他ならない)である。

 

何時そういった状態になるのかは私から説明が容易にできるものではないが、自らの『普段の行い-″着飾ろう″とする心のあり方-』が決めている、とでも言っておこう。

 

ある程度の力を持った者が山羊になると、それが『ヘビ-偽りの美しい姿(″着飾り″)をした者-』と化する。このとき、この者の特有の「賢さ」とは「狡さ」が特性となっている。

 

ヘビ(そういった状態の人)は何とかして楽園(五次元世界)に入り込もうとするが楽園の門番が居て入ることを許可されないのではない。自らによって入られないのである。

つまり、

『楽園-五次元-』は『裸-心がクリアー-』でなければ入れられないのである。

 

心がクリアーの状態とは着飾って取り繕うものではなく、瞬時に思ったことを述べられる状態の事を指す。

 

自分にとって良いか悪いか、相手にとって良いか悪いか、を考えている状態にすらない。

 

要するに、裸以外の者の思考回路とは『二元の膜-△▽(核の周り)-』を眺めている状態についての心境を述べているに他ならないのである。

 

 

したがって、最も信頼としている者の言葉こそに左右されていてはならない。

 

自らの思考も含む言葉に左右されてはならないのである。

 

しょせんは言葉(△▽の周りの解釈の道具)などどうでもよく、単なるコミュニケーションツールの一環に過ぎない。

 

この理由は言葉は起源の持っていた意味が変えられているからである。″封印がかけられている″ともいえる。

わざわざその封印を解くために図書館で一生を費やしたくはないだろう。

 

そんなこと(言葉)よりも、その言葉を送信した側の意図を汲み取ることに時間を費やすべきである。

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【自己言及のパラドックス/嘘つきのパラドックス(Wikipediaからの引用)】

 

 

 

自己言及のパラドックス/嘘つきのパラドックスの問題は、真理と虚偽に関する一般通念を適用すると矛盾が導かれる点である。文法や意味論の上では規則を守りつつ、真理値を割り当てられない文を構築することができる。 

 

「この文は偽である」

 

という構造の文を指し、自己を含めて言及しようとすると発生するパラドックスのことである。この文に古典的な二値の真理値をあてはめようとすると矛盾が生じる(パラドックス参照)。

 

 「この文は偽である」が真なら、それは偽だということになり、偽ならばその内容は真ということになり……というように無限に連鎖する。同様に「この文は偽である」が偽なら、それは真ということになり、真ならば内容から偽ということになり……と、この場合も無限に連鎖する。 このパラドックスの最も単純な文は次の通りである。 

 

「この文は偽である。(A) 」

 

(A) が真だとすると、そこで表明されていることは全て真でなければならない。しかし、(A) はそれ自身が間違っている(偽である)と表明しているので、それは偽のはずである。これを真とする仮説を立てると、それが偽だという矛盾が生じる。同様に偽とする仮説を立てても矛盾を生じる。この文を偽だとすると、そこで言っている内容は真ではないということになる。すると、それは真だということになる。どちらの仮説を採用しても、(A) は真でありかつ偽であるという結論に至る。 しかし、この文を真とすると偽だということになり、偽とすると真だということになることから、「真でも偽でもない」と結論することもある。このようにこのパラドックスに反応することは、真理と虚偽についての一般通念である「全ての文は二値原理に従う」を否定することであり、それは排中律とも関連する概念である。

 

「この文は真ではない。(B)」 

 

(B)を真でも偽でもないとするなら、真でも偽でもない中間があるということになり、(B) は真ではないということになる。するとそれはまさしく (B) が主張している内容であり、(B) は真だということになり、結局パラドックスが生じる。 (A) のパラドックスに対するもう一つの反応として、グレアム・プリーストのように矛盾許容論理を仮定し、真であり同時に偽であるとする考え方もある。しかし、次のように変形すると矛盾許容論理を仮定してもパラドックスから逃れられない。

 

「この文は偽のみである(つまり、同時に真ということはない)。(C)」

 

 (C) を真であり同時に偽であるとすると、それは偽でなければならなくなる。つまり (C) は偽のみであると表明しているが、それは真ではありえないということであり、結局パラドックスを生じる。