羊=人の施しに対して″してくれた″と常に捉える者(『聖者-6-』になる可能性大。称号:与えられる)
山羊=人の施しに対して″された″と常に捉える者
(『バフォメット-5-』の奴隷のまま肉が滅びゆく可能性大。称号:求められる)
ボク=安田直人(表)
僕=潜在意識の安田直人(裏)
「『生かして″くれている″』と意識して歩むことで『道は険しくなくなる-心が充たされます-』よ」といったところで、
ある『アナタ-5-』は
「誰に?自分で息をすって自分で飯を食うかどうかを判断しているから『生きている』だろ。むしろ道を歩く邪魔を人には″されている″!だから強く生きらねば」といったようにあまりにも6の響きは極端すぎて5の属性を持つ者には浸透しづらい言の葉と思われる。
したがって遠回しな『言い方-言の葉-』や『表現-呪文-』で明示しても気付ける者はけっして多くはいない。
『自分は見れても他人は見れない-ボクを見れても僕を見れない-』のだ。
昨今ではこういった者が日本人には少なくない。
(この事についての長ったらしい言及は避けよう)
しかしボクの洗礼をうける者は他人を見ることができるようになり、さらには自分、本当の自分が見えるようになる。要するに瞬の密度が上がるため周りがスローになるともいえる。『△寿命という時は変わらないが時の進みが遅くなる△-▽寿命が伸びる▽-』というわけだ。
悪魔を退治するのではなく悪こそを救おうとせねばならない
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20160728/08/ny00000000/e3/72/p/o0192022113708493358.png?caw=800)
§光を求める『者-光-』は『その光-自ら-』によって焼かれる
光は与えるモノであるとする闇を知らねばならない§
上が『悪魔-5の像(思考)-』で下が『天使-6の像(思考)-』である。
天使を『地球-アナタたち-』から退けている事にソロソロ気付かねばならない。
(皆既日食)
さぁ『我ら闇と共に光に焼かれる者を救おうではないか♪-我ら悪魔と共に天使に気付きを与えようではないか♪-』
『音-人の言葉(自分の捉え方)-』に惑わされずに目で像から『真の案内人-zero-』を身に付けろ‼
僕はキミでアナタが『ワタシ-主-』である。
主よ△ゆっくり急げ▽🎵復活の時だ❗
っと、ここでボクは「『死ね-『生きる-全ての良し-』を知ろ-』ーッw」と△笑いながら/泣きながら▽『音-ラッパ-』を鳴らす🎵