《非暴力防衛・いわき》創刊準備号 | 非暴力防衛〈実行のための研究〉ネット

《非暴力防衛・いわき》創刊準備号

《非暴力防衛・いわき》創刊準備号

私どもは 昨年6月に《非暴力防衛》について学びを深めるため、「戦争をなくすために」という読書会を始め、まずジーンシャープ「戦争の廃絶を実現可能な目標とするために」。ついで寺島俊穂「戦争をなくすための平和学」の章『非暴力防衛の可能性』と読み進めておりましたところ、会場としていたいわき市総合図書館が閉鎖され中断。その後。図書館は再開されましたが、グループ閲覧室は閉鎖のままです。

その間にも、基地新設・軍備増強などは進められており、改憲機運の醸成努力にも緩みはないようです。

 また、コロナ禍は 国家間の緊張にまで及びつつあるようです。

防衛といえば軍事力という流れに疑問を いだき、《非暴力防衛》についての研究は、非力でも 進めてゆきたいと思うことです。

そのために 会合をもつことにかえて、この課題に関心をお持ちくださる方々に、ご意見・疑問・感想などをお寄せいただき 小冊子にまとめてみてはどうかと思いつきました。 

いわば 紙上読書会というわけです。 

私のイメージは

皆様に 700字程度(A5版・1ページ分)の文章をお寄せいただき A5版・4ページ(A4版・裏表)のリーフレットにまとめ お返しする。

これを 皆様方に 必要部数コピーして 皆さまの身の回りの方々やお知り合いなどにお配りいただき お読みいただいて 意見交換のきっかけにしていただく。

これを繰り返す・・・というものです。

 これは その雛型のつもりです・

 いかがでしょうか?

 ご意見・ご寄稿を心からお待ちしています。

 (連絡先)泉が丘2丁目3ー4 鞍田 東

      〒971-8171 電話56-2596

      mail ak3501@hotmail.co.jp 

   20205月   

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]   憲法記念日に            

 

ガンディーが 1925年(独立達成の20年前)に《非暴力》について述べた言葉を見つけました。

『私の使命(非暴力)がひとりインドだけで成就できないことは、わたしもじゅうぶん承知している。けれども、わたしは謙虚に自分の限界を認識して、インドにおける実験の結果がわかるまでは、今しばらくは舞台をインドに限らなければならないことを意識していたいと思う。

世界の改善のために、インドが自らをすすんで清い犠牲に供することができるほど、自由で強くなってもらいたい。』「アメリカの友らに」(ガンディー「私の非暴力1」)

いわゆる「リアリスト」の改憲論だけでなく、いわゆる「護憲論者」であって 「自衛隊の存在を認める人」、「日米安保条約を認める人」などを含めると、日本国憲法・・・第九条を素直に文字どおりに護ろうとする人はすでに少数派となっています。

これでは 何かあったときには 戦争に参加してしまい、「非戦・非武装」という世界史の大きな流れの中で日本人に託された人類的使命に背いてしまうことになるのでは?

今こそ、わたくしは いかに少数派となっても 「非暴力防衛」を掲げることにより、ガンディーのこのような覚悟に学びつつ、努力を尽くしてゆきたいと感じました。

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 非暴力防衛への二つの入り口

 

読書会を始め、基本的なテキストを一緒に読んできましたが、次にはどのように学びを進めてゆけばよいのでしょうか?

 この点について、寺島俊穂「市民的防衛の論理」という論文を読んでいて非暴力防衛というテーマへの入り口が二つあるのではないかと気づきました。

 一つは 《非暴力主義者として「防衛」という課題とどう向き合うか》いう入り口。

 一つは 《戦争の悲惨を回避する防衛政策がありうるのだろうか》という入り口です。

 寺島論文から 若干引用しますと

「ガンディーの防衛思想

・・・自己犠牲さえ厭わぬ非暴力手段による防衛を提唱」

「市民的防衛論の代表的な主唱者であるジーン・シャープの議論

・・・市民的防衛は信条ではなく政策だということを強調・・・市民的防衛を採用する国の市民がすべて平和主義者や非暴力主義者である必要はなく、その政策としての有効性を確信することが求められているのである」

 この違いがありうることを認識し。同時に、この入り口の違いにつては、統一する必要はないと交通整理してみてはどうでしょうか?

そのうえで、非暴力防衛の有効性、非暴力防衛の方法。世論への働きかけなどについて 勉強してゆく順序を決め、具体的な検討に取り掛かってはどうかと思いついたのです。

どうお考えでしょうか?

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  合気道

  攻撃せずに身を守る武道

『娘と話す 非暴力ってなに?』という本をよんでいて、「合気道」という言葉に出会い、驚いたことがあります。

七〇歳を前にして勤めから離れ、長年組織の一員として働いてきたものが、一人で社会に向き合ってゆく姿勢を身に着けるために、一対一で向き合うスポーツをやってみてはどうだろうかと感じ、たまたま近所で見かけた合気道の道場へ通い始めていたときでした。

この言葉は、「非暴力ってへんな言葉だね」「非暴力では身体を守れないじゃない?」「「なぐられだけなんてごめんだわ」という娘に対して父親が《合気道》って知ってるだろう?」と答えるところで出てきます。

父親は「非暴力的に戦えるスポーツなんだよ。」「合気道の原則は、攻撃しないで自分を守るということなんだ。」「合気道を習えば、攻撃されてもこわくなくなる。」と続けます。

そう言われてみると確かにそうでした。

武道であるのに、合気道には 先手で攻撃する技がありません。相手の攻撃をどう受けて、どのようにかわし、どのようにして相手がさらなる攻撃ができないように抑え込むかという練習がすべてなのです。

手刀、あるいは木刀や杖で攻撃する練習もしますが、これらはすべて攻撃を受ける側の技の練習のためなのです。

 

なるほどと思いました。

そして、ガンディーやキング牧師に由来する非暴力行動の思想の歴史の中に、日本の文化に繫がるものがあることを誇らしく感じたものです。

さらには、「非暴力防衛」という聞き慣れない言葉に違和感を感じる方に説明するときに、良い例が見つかったと思ったものでした。

ジャック・セムラン

「娘と話す 非暴力ってなに?」

    現代企画室 二〇〇二年