ふと、気がつくと、恥ずかしくなってしまう、そんな癖も、これがどうして、宝物なのかもしれない。そこにこそ自分らしさが隠されているかもしれない。
それぞれ、みんなが、簡単に何かの手を加えてしまえれば、姿も仕草も、服を着替えるように、その時の誰かが作った流行の形に、みんながしてしまう。それは、一見すると、みんな差がなくて楽ちんってことになるのかもしれない。
でも、そうしたら、自分って、どこにあるのだろう・・。
そりぁ・・人である俺たちに、ふっさふっさな尻尾が生えていたら・・ 現在では、奇異なものに映ってしまうだろうが、特別に奇異なもの意外は、愛すべき個性なのではないのか・・
そこにある醜態や失敗も、挑戦した証でもある。愛すべき宝物にするといいと思う。
その一歩を踏み出せた自分は、前に進めたことに他ならない。
完璧ではない、人である自分は、その不確かさから、知らず知らずの内に歩みを恐れてしまうことも少なくない。だからこそ、できない自分を愛することで、その自分としての揺らぎを感じて、感性を、広げていけば、それが確かな個性になる。
ぬう自身も、近しく思える瞬間は、そんな素の部分が感じられた時、とっても愛おしいと思ってしまう。
そうそう簡単に出来上がったものではないのが、この「素」って部分だと思う。
まだまだ、自分のことを、どこかの尺度で、型にはめこむのは、どうなんだろう・・。
まだまだ、歩む、その先はあるんじゃないかな・・。
その歩み方を、じっくりと確実に、模索してかないとね。