私の背中のアザは、私自身では見えない。
鏡越しに見ることはできても、それは“反転しでしかない。

誰もが“自分では見えない部分”を抱えて生きている。

 

 

「盲点」。

 

自分では気づけない癖、思い込み、口ぐせ——
それらは、他者の視線や反応を通してはじめて輪郭を持つ。

だから、他人のまなざしはときに暴力にもなるけれど、
ときに、見えない自分を照らす光にもなる。

 

私は、他者に映されたの像を通して、
本当の私に近づいているのかもしれない。

「見えないからこそ真実である」とも言えるかもしれない。

 

魂のテーマやカルマは、多くの場合、自分では見えない場所に潜んでいて、
人間関係や感情の反応を通して、浮かび上がってくる。

 

私が誰かに惹かれる理由、怒りや哀しみに動かされる理由。
それらは、私がまだ気づいていない背中の印に触れているからかもしれない。

 

誰かと深く関わることでしか現れない私が、確かに存在する。
それは、私を完成させるための魂の対話とも呼べる時間なのだと思う。

 

大切な人に背中を触れられたとき、私はいつも少し戸惑う。
くすぐったさでも、嫌悪でもない。
それは自分の知らない自分に触れられる感覚。

 

彼の手が、私の見えないアザに触れたとき、
彼は何を感じていたのだろう。

疑い? 驚き? 愛しさ?

 

私は、ただその指先を通して、
「私はここにいる」という感覚に還っていく。

それは、誰かと繋がることでようやく輪郭を持つの一部。

 

だからきっと——
他人のまなざしに晒されることを、怖れてばかりじゃなくていい。
ときにはその視線が、私の奥の奥を、そっと抱きしめてくれることもあるから。

 

私は、私の背中を自分では見られない。
でも、そこに確かにあるものを、感じている。

そして、
それを見つけようとした誰かの手が、
もし、ほんの少しでもやさしく触れたなら——

私は、その瞬間だけは、
世界のどこよりも自分の真ん中に触れているような、
そんな気がする。

 

他者に照らされることで知る自己。

「触れられなくても、確かにここに在る」という魂の証。

 

自分では見えない場所に刻まれた何かを抱えて、
私は、今日も生きている。

恥じるものは何もない。
むしろその「見えなさ」ごと、愛おしんでいこうと思う。

 

このアザは、私。
見えないけれど、私の中心にある。