「迷子になっても、ちゃんと見つけてあげるよ。背中の印で、わかるから」

子どもの頃、母に言われた。

 

私には小さなアザがある。

自分では見えない、でも誰かと深く関わったときだけ、見つけられる場所に。

 

幼い頃、母はそれを“印”と呼んだ。

 

けれど、大人になった私は気づいた。

母のあの言葉は、私のためではなかったんじゃないか。

 

 

私の背中にあるこのアザは、

ずっと黙って“私”のことを語り続けていたのかもしれない。

“見つけてもらいたかった私”の記憶。

 

 

母の言葉も、恋人からの疑いも、身体に刻まれた他人からのまなざし——

 

 

母はそう言って、私の背中を優しく撫でた。
指先ほどの、小さなアザ。
それは私自身では見えない場所にあった。

——だからこそ、
“私をよく知っている人だけが見つけられる”という設定が、
どこかエロティックな秘密で気に入っていた時期もあった。

 

 

あの母の言葉の裏にあったのは、
“私のため”を装った、母自身の安心。

 

 

「ちゃんと見てるから」

 

 

それは“ちゃんと見ている”自分でいたい、母の安心だったのだ。

私は母の物語の中に、知らないうちに巻き込まれていたということ。

 

 

あのアザは、
母にとっては私を所有するための目印。


彼にとっては私を疑うための証拠だった。

背中にあるその印を、
誰かに見つけられるのは、私と親密になった人だけ。

 

そのアザはキスマークに見えるらしい。

 

「誰にやられたの?」
冗談のように笑いながら、
ふと、真顔になる。

 

 

そんなやりとりを繰り返してきた。

私の身体は、私のものなのに、
私の背中は、私より先に誰かに読まれていく。

 

 

私の身体は、私のもののはずなのに。
でも実際は、「どう見られてきたか」によって、
無意識のうちに、反応の仕方や振る舞い方が染みついていた気がする。

 

 

他人のまなざしが、
姿勢や肌の感覚、緊張の癖にまで、
いつの間にか刻み込まれていたのような気がする。

 

 

女の身体は、「自分で選んだつもり」で覚えた反応や態度が、
実は、誰かに“そうあるべき”と見られてきた結果だったりするから。

 

 

「見つけてあげるからね」
そう言った母の声を、
私は最近、少しだけ違う意味で思い出していた。

 

 

見つけてほしかったのは、
“私という存在”ではなくて、
“私が知らないうちに置き去りにしてきた私”だったのかもしれない。

 

 

私は、見つけてもらわなくていい。
私の背中にあるこの印は、
他人の疑念や不安のためのものじゃない。

これは、私自身が背負ってきた数々の記憶。
私の無意識が刻んだ、生きてきた証。

 

 

このアザは、私。