〜余白という余裕〜

 

アラフィフになって、ようやく休むという感覚が、少しずつ身体に馴染んできた気がする。

休んで良いのに休めていなかった、そんな休息をしてきたように思う。

 

「休もう」と思った瞬間から、私はもう休めていなかった

深呼吸さえ「やらないといけない」ことになってしまう。
「今はリラックス中だよ…」と自分に言い聞かせながら、心の中では仕事のことや、家族のこと、恋の後味まで、ぐるぐると回っている。

 

——休むって、難しい。

本を閉じたのに、頭の中で物語が続いているみたいに。
スマホを置いたのに、指先がまだ通知を探しているみたいに。

それは、日常にこびりついた頑張り癖なのかな。


自分を許すのも、案外いちばん難しかったり。

「許す」ことがうまくできない私が、「休むこと」だけ上手にできるはずがない。

 

「休む」という行為にすら正解を探してしまう私だった。
誰かの「整った暮らし」に憧れて、自分もそうしなきゃと無意識に真似をして、
気づけば、自分にとっての休みではなくなっていたりする。

 

この1年、しっかり自分と向き合う時間、そして私自身からのアウトプットを始めてから、
私は「休む」ということが少しだけできるようになった気がする。

 

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真夏でも毎日欠かさず淹れているお気に入りの緑茶。

湯呑みから立ちのぼる湯気が、冷房の風と絡み合う様子をぼんやり見つめていた時ーー
湯気の湿気と、お茶の香りにふっと包まれる、その一瞬ーー
その何もしていないこそが、私を空白に戻してくれているのかもしれない。

 

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新月の日の朔日参り。
鳥居をくぐるとき、私はいつも、空間の変化を意識していた。
外の喧騒とは違う、しんとした静けさ——を感じたくて。
木々のざわめき、風の流れ、遠くで聞こえる鈴の音……
それらにそっと耳をすませているうちに、私の中の忙しさが、少しずつ溶けていくのを感じる。

先月のお参りのとき、ふと思った。
神社という“仮想空間”が、私の脳内にできているのかもしれない。
鳥居をくぐるだけで、無意識にその静かな領域へと移動しているようだった。

神様の前で、私はただ手を合わせている。
考えているようで、考えていない。
半自動的に、ひと月分のいろいろを淡々と報告している自分がいて、
私はその様子を、少し離れた場所から見守っているような感覚だった。

 

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日常的な買い物でも。
スーパーまでの道のりで、空の色が変わっていることに気づいたり、
風の匂いが少し湿っていることに気づいたりする。
野菜や果物、魚などの旬の移ろいにも、私の身体はちゃんと反応している。
献立を考えていたはずなのに、スーパーの棚に並ぶトマトがあまりに美味しそうで、つい手に取ってしまうように。
そんな小さな寄り道の中にこそ、心がほっとする瞬間がある。

 

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休むとは、何かを止めることじゃない。
頑張るのをやめることでもない。
感じることを取り戻すこと。

——私はちゃんと感じてる?
自分の呼吸も、心の動きも、小さな違和感さえも、
感じられる場所に戻ってくることーー
それが、ほんとうの「休み」のような気がしてる。

 

他人の「休み方」に合わせる必要なんてない。
私の心と身体が、やっと息をつけた瞬間ーー
そこにだけ、私だけの「休む」がある。

 

忙しさを捨てなくてもいい。
その真ん中に、小さな余白を置いてみるだけ。

人生そのものに深呼吸をさせてあげるように。