友人からのLINEが届いたのは、自分の内側と深く向き合っていた、そんな日のこと。
近況を報告し合う中で、私が心の整理のために、書くことをしていると伝えると、彼女は少し驚いたようだった。
「書くことって大事。頭が整理されるもの」
彼女は昔から、一人でカフェに行き、ノートを開いて自分と向き合う時間を作る人。
その姿をどこか羨ましく思い、私も何度か真似してみたけれど、現実はいつも複雑に絡み合いすぎて、すぐに面倒になっては途中で投げ出してしまっていた。
それでも、「この内観の作業を避けていたら、本当の意味で前に進めない」——そう感じていたことも事実。
「書けるまでに何年もかかったよ」
たくさん伝えたいことの中から、私はそれだけを伝えた。
すると彼女は、「深い傷だったのね」と静かに返してくれた。
その言葉に触れたとき、改めて気づかされた。
ああ、本当に、深く痛かったのだと。
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今でも書けないことがある。
もしかしたら、これからも書かないかもしれない。
今さら言葉にする必要もないかもしれない。
それは出来事ではなく、現象として20年ほど私を冒し続けた。
私はそれを過去にあったこととして、ただ静かに心の奥に仕舞っている。
でも、その書かないかもしれないことは、間違いなく私の人生の輪郭を大きく形作ってきたこと。
10歳——まだ子供だったあの頃から、人に言えないことが始まり、私は少しずつ孤立していったのだと思う。
家族も友達も、誰もわかってくれると思える人はいなかった。
そう思っていた記憶は、今では驚くほど静かなまま。
あれほど心を悩まし、痛めた出来事だったのに、不思議なほど静か。
大人になって、対処するために動けたことと時代や文明によって、表面上、解決したから。
周りの子達が青春を謳歌していた10代から20代にかけては、これ以外にも問題が山積し、もがき続けるのに必死だった。
本当にしたいこと、すべきことを見失い、ただ日常に追われる日々。
心の声を聞く余裕なんて、どこにもなかった。
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振り返ってみると、語られない物語こそが、その人の人生を深く形作っているのかもしれない。
書けないこと、語れないことは、なかったことになるわけじゃない。
むしろ、語られないままの物語が、その人の行動や価値観、人生の選択を静かに左右していくような気もする。
心の中の、自分でも気づかない深い場所にしまわれた記憶が、人との関わり方や、日々の過ごし方に大きく影響する。
例えるなら、見えないけれど確かにそこにある根っこが、木全体を支えているように。
そして、話せないことについては、黙っているしかないと悟る。
話さないことは、決してその出来事が消えてなくなることではない。
むしろ、語られない静かな部分こそが、私の個性や生き方を形作る土台になっていると感じている。
書くことや内観は、言葉にできるように整理するための行為なんだと気付いた。
でも、書けないまま封印した部分もまた、確かに私という存在を形作っている。
「人に話せたら、トラウマは初めて癒される」とよく聞くけれど、
私は語る準備ができないまま、語らないことで生き抜いてこれたとも思っている。
そっとしまっておいた記憶は、無理に言葉にする必要はない。
自然と解け出す日まで、ただそこにあればいい。
自分を見つめるという作業の中で、どうしても言葉にならない感情や記憶は、未消化の状態で残ってしまうのかもしれない。
でも、その沈黙の中にこそ、私自身の真実が息づいているように感じている。
