まだ言葉にならない、心の奥の“何か”を探して——

 

とても大きな困難や苦しみが目の前に立ちはだかるとき、

私はふと「もう一人の私」の存在に気づく。

 

それは、10代の頃から変わらない感覚。

 

——なぜ、今こんなことが私に起きているの?

——なぜ、私だけがこんな身体なの?

——なぜ、私だけがこんな思いをしなくてはいけないの?

 

神様は本当にいるのだろうか。


もし本当にいるのなら、

いつ、

どんなふうに私を助けてくれるのか。

 

けれど一方で、

どれだけお願いしても、

誰かが助けてくれるなんてことは起きないと、

どこかで知っている私がいた。

 

そして、これまでに感じたなぜ」の数々を、
私は次第に「何のために」という、
意味や理由を探す問いへと変えていくようになった。

 

きっと、自分ひとりではどうすることもできない出来事に、
ただもがき苦しんでいた時期が長かったから、
私はいつしか、こんな思考に辿り着いてしまったのかもしれない。

 

——でも、どこかで思っていた。

 

この経験も、痛みも、
いつかきっと役に立つ時が来るような、
そんな錯覚めいた希望を。

 

もしかしたら、これは自分で選んできた道なんじゃないか?

 

「何のために?」

 

問いを重ねていくうちに、
さらにその先——


「私はこの感覚そのものを、どうしても味わってみたかったんじゃないか?」
そんなふうに思える瞬間さえあった。

 

他の人にはきっと味わえないであろう感覚、感情。

 

——それが、どこか誇らしくすら感じられた時もあった。

 

そうして、近年になってスピリチュアルな発信や言葉たちに触れる中で、
私の中の感覚は、いよいよ確信に近づいていった。

 

やっぱり——


言葉にできず、ただ感覚として抱えていたあの思いは、
やはり「そうだった」のかもしれない。

 

このブログを書き始めてから、時折思い出すことがある。

もしかしたらこれに関係するのかも知れない。

 

言葉にうまくできなくてもどかしいのだけど、

何かを思い出そうとするというのか、

思い出しかけているというのか、

だけど、掴めないまま終わってしまう感覚。

 

夢でひらめきがあって「」となったのに、

目が覚めてどうしても思い出せないような感じ。

 

その瞬間、私はフリーズして感覚に集中するんだけど、

まだうまく掴めない。

 

何がしたいのか、何を伝えようとしているのか——


その輪郭すらぼんやりとして、
いまはまだ、夢の続きを思い出せずにいる。

 

だけど、こうして言葉を紡ぐたび、
ほんの少しだけ、その「何か」に近づける気がする。

 

すぐには掴めなくても——
大切なものは、きっと、
ふとした瞬間に私の手のひらに舞い降りてくる。