愛し方も頼り方も違うふたり—— 

振り返ってみると、私たちの関係には、どこかすれ違いが多かった気がする。

 

 

私は幼少期から孤独を感じて生きてきた。

だから、親子だろうが完全にわかりあうことはできないと、身を持って知っている。 

それでも、なお、私たちは「わかりたい」「わかってほしい」と願う。

 

 

「ももがいたから頑張れた」と言われたそのとき、まだ癒されずに残っていたささくれに触れた。 

彼のその言葉の温度を素直に受け取れず、どこかでその言葉の中に甘え期待の重さばかりを感じてしまった。

私もまた、「もっと愛してほしい」「愛を伝えてほしい」と心の中で叫びながら、 結局はうまく伝えられず、ただ“察してほしい”ばかりが先に立っていたよね。

 

 

でも、その一方で「会えない時間が愛育てるのさ」という歌詞のように、少し距離があったほうが想像力は豊かになる、とも思う。

近づきすぎれば見えなくなり、離れすぎれば手が届かない。

その埋まらないあいだで、私たちは、それでもなお、心の橋をかけようとし続けているのかもしれない。

 

 

「愛とは、ふたりで不完全さを受け入れること」

どこかで耳にしたこの言葉。 

完璧な愛なんて、きっとどこにもない。 

だけど、「うまくできなかった」日々にも、ちゃんと意味があって、 その不完全さごと愛したいと思う。

 

 

もしかしたら、私たちが人生のなかで何度も誰かと関わろうとするのは、 「本当の自分探し」の旅を続けているからかも知れない。

誰かと出会うたびに少しずつ輪郭を変えていくことを感じながら。

 

 

すれ違い、依存、期待—— それらは全部、「人間である」という営みの一部。 

「人は生きている限り、何度でも愛し直す存在だ」というユングの言葉がある。

答えなんて、どこにも用意されていない。 

それでも私は、未完成なままの心を抱えながら、 もう一度、誰かと橋をかけて行き交うために、勇気を持っていたい。