冷蔵庫を開けて、僕はしばし立ち尽くした。
中に入っていたのは、カップゼリー、菓子パン、そして甘そうなジュース。
炊飯器の中は、空っぽ。かつての“家庭のにおい”は、そこにはなかった。
「母さん、これ、全部……?」
声をかけると、母はにこりと笑って言った。
「うん、ちゃんと食べてるよ」
ちゃんと? 本当に?
僕は思わず冷蔵庫に向かって言いそうになった。
「この家の真実を、語ってくれ」って。
でも、そのとき母がぽつりとこぼした。
「……なんかね、時間がわかんなくなるのよ」
え?
「朝だったか、昼だったか、夜だったか……さっき食べた気もするし、食べてない気もするし。冷蔵庫にあったから、とりあえずそれ食べたのよ」
母の声は穏やかで、なんだかちょっと恥ずかしそうだった。
「それでお腹いっぱいになっちゃって……もう晩ごはんいらないかな、って」
なるほど。
痴呆って、記憶が抜けるだけじゃなくて、「順番」や「感覚」がごっそり失われるのかもしれない。