SNSで、日本人と帰国子女でスラングや文化の違いあるある話等を面白おかしく寸劇で教えてくれるアカウントがある。たまに『日本に来たばかりの外国人』と『日本に慣れた外国人』の比較で英語は関係なくあるシチュエーションでそれぞれがどういう行動を取るか、という内容の投稿がある。最近のそのシチュエーションは電車内でお年寄りが乗って来た時の対応だった。『日本に来たばかりの外国人』は乗ってきた瞬間に立って「あ、おじーちゃん、どーぞどーぞ!。」から始まり席を譲った後も話しかけ続け、『日本に慣れた外国人』は乗ってきたお年寄りを確認して、イヤホンをつけフードを被り見て見ぬふりをしつつ、心の声として(やっぱり譲った方がいいかなぁ・・・)と内心迷っている、という内容だった。このような内容の投稿は定期的にあるが、いつもそうだが彼らは決して日本人が冷たいということを伝えたいというわけではない。どちらにもいい面、悪い面がるよねーという感じだ。しかしこの投稿へのコメント欄にいくつか「こんな対応、東京だけだよ」とか、「地方はこんなことありません」とか「田舎は知らない人とも会話するし、挨拶する」というものがあった。こういうことって色々なとこで目にしたり耳にしたりする。私が知り合ってきた中ではよく関西出身の人が「東京の人は冷たい。」と言っているのを聞いてきた。その度に違和感を覚える。私は東京ではない関東圏に実家がありそこに人生で一番長く住んだ。東京にほぼ毎日行くようになったのは東京の大学に進学してからで、それからは仕事も東京だし、今は東京に住んでいる。確かに東京の人(というかいわゆる1都3県はほぼ変わらないと思うが)は、知らない人と世間話をしたり挨拶する習慣はほとんどないし、電車でお年寄りや妊婦さんに譲ってあげない人など困っている人や弱者へ手を差し伸べない人もいる。が、差し伸べる人も普通にいるように私は感じるし、あの東京の信じられないほどの満員電車を何年も経験した身としては時として譲る余裕がないほどに疲れていることもあり、譲れない時があることを理解できなくはない。一方で、私が関西や地方に行った時に「排他的だな」と感じること、嫌な気持ちになったことがある。東京は仲間意識が弱いと思う。その分東京の人に対してもそれ以外の人に対しても対応は良くも悪くも同じなのではないだろうか。反対に東京の人をあまりよく思わない地域の人たちは仲間意識が強く、内輪の人間には優しかったりフレンドリーだが、それ以外の人にはそうでもなかったりする面もある気がする。あくまで私の実体験からの推測でしかないし、私が触れ合った人がその地域の全ての人ではない。それに私にも関東圏以外で大事な友達はいるし、その人たちは私にとっては皆いい人間だ。日本では周知のことだが欧米ではお店に入った時やカフェの店員さんなどにどちらからともなく挨拶するのが普通だ。「調子はどう?」「今日は忙しい?」「今日は天気がいいね!」なんて会話を添えたりもする。私はカナダから帰ってきてから特にお店の人に挨拶をするようになった。自分が日本でカフェの店員をしていた頃を思い返すと、「いらっしゃいませ、こんにちは」とか言ったところでお客さんからの返事は十中八九なかったし、ないのが当たり前だったし、自分が客側の時も相手の挨拶を当たり前に聞き流していたと思う。帰国後はあくまで受け身にはなってしまっているが、店員さんの挨拶には必ず返すようになった。なぜ当たり前に無視していたのか、無視できていたのかとハッとしたが、それに気付けたことも、向こうのいい習慣が身についたことも留学して良かったと思えることの1つだ。話を戻すと、この海外のお店に入ったら挨拶をする元々の目的は危険が多い欧米において「私は怪しいものではありません」と示すためだったと聞く。今となってはいい習慣ではあるが、ある意味そうすることがマナーとして半強制的なようにも感じる。同じように東京では他人に容易に関わることがタブーという風習があるように思う。それに従うこともまた1つもマナー。関西ではおばちゃんが飴ちゃんとやらを持ち歩き、他人にもそれをあげてしまう、そういうのも関西の習慣で1つのマナー。みんな生まれ育ったその地に合わせて無意識にその習慣を守る、郷にいれば郷に従えとマナーを守っているだけなのではないだろうか。東京にだってものすごく親切な人だって必ずたくさんいる。でもその人が誰彼構わず挨拶をしたり必ず席を譲るかはわからない。同じく関西だろうと東北だろうとそれは同じだ。その1シーンを切り取って「○○の人は冷たい」と決めつけるべきではないのだ。私は東京の(関東の)習慣に慣れてしまっていることで、他の地域の習慣に触れた時、違和感を覚えることもあるし、時に不快に感じたりもする。でもカナダでの挨拶の文化のように、「いい習慣だな」と思うものもあるはずだ。それぞれがそれぞれのいいなと思った文化や習慣を真似しあえばいい。同時に自分の振る舞いがその地域、もっと言えば国の代表として誰かに語り継がれてしまうこともあるわけで、気をつけないといけないことだとよく思う。

 

"私の習慣は何だろうと改めて考えてみると、何かを「する」のではなく、「しない」ことを決めることかもしれません。" -星野佳路-

 

「お年寄りに席を譲る」「困っている人に進んで手を差し伸べる」などと、迷わず行動「する」ことだけがいい習慣・いい人間というわけではない。行動に移せないなら誰かが傷つくようなことを「しない」ことだって十分にいい習慣だ。目に見えているさまざまな印象だけが全てではないのに、と今日は朝から考えた日だった。