先日話題の映画「ミッドナイトスワン」を観てきた。愛と美とリアルと苦しみと絶望が混ざり合ったそんな映画だった。トランスジェンダーの苦しみは他の映画や書籍でも目にしてきた。だがこの映画はまた少し違った視点から描いているように感じた。心と体にギャップがあることへの苦しみは理解したくても当人たち以外は決して理解できない。そこにプラスして差別や偏見が世界には存在している。「ミッドナイトスワン」の主人公は数々の苦しみと絶望の中で、1つの希望を見つける。そこにあったのは性別など無関係な“愛情“と“美“だ。このお話はバレエという形で美を表現しているが、その中には芸術と才能と夢と希望が存在していて、至極自然に「あぁ、なんて美しんだろう」と、そう思わずにはいられないほどの“人間美“を感じた。特にこの映画は言葉よりも表情や動作で愛や苦しみを伝えていて、胸を締め付けられるシーンが何度もあった。自分自身、差別や偏見はないつもりだ。だが、こういう映画や話に触れるたびにいつも本当の意味で彼らに対する自分の考えや振る舞いが正しいものなのか自問する。中学の後輩に1人トランスジェンダーの子がいる。中学時代までは女性として生活していて、とても懐いてくれていたし可愛がっていた。高校では少し疎遠になったがこのあたりから自覚し始めていたらしい。そしてさらに数年後久しぶりに会ったときに初めてカミングアウトされた。その間私はたまに会うたびに「彼氏できたー?」と何気なく聞いていた。元々サバっとした子でいわゆる女子っぽくはなかったし、聞いたときは「あーなるほどそうだったのか」と思ったが、私の質問が言いにくくさせてたのかもしれないと思うと申し訳なかった。今その子は念願叶って完全に男として生きている。だが私は新しくなった彼のその名を今も呼べていない。それは自分の中では今でも女の子だからというわけではない。が、男かと聞かれるとそうも見ていないと思う。1人の人間として昔も今も同じ可愛い後輩というのが私の中の本当の感情だ。当時から名字で呼んだり名前で呼んだりしていたため、今はその名字で呼んでいる。彼を新しい男性の名前で呼ばないことは彼を受け入れていないことになるのだろうか。私の中の本当の本当はそうなのだろうか。映画を見終わったあとの帰り道、悲しいような、この世界に腹が立つような、なんとも言えない色々な感情にまみれた。“人と違う“という“人“とはなんなのか。“異質“と捉えるか“個“と捉えるか、人間の中に当たり前に存在する「よくわからないものへの恐怖」が前者を増やし、その感情は最悪その人たちを「排除」しようとする。病名や言葉を作り説明することで、昔よりは差別や偏見は減ってはいるのだろう。だがきっとまだまだだ。

 

"人を人と思うだけで、人は変わるのに" -ゆず「三番線」-

 

ゆずの「三番線」という歌の一部だ。男とか女とか、若者とか高齢者とか、貧乏とかお金持ちとか、日本人とか外国人とか、そんな枠より先に“人間“として人を見る。そんな人が増え続ければいいし、自分もそうでありたいと改めて考えさせてくれた、「ミッドナイトスワン」はそんな映画だった。